「大掃除してますか」
ヨハネ 2:13-22 2012.3.11
今日は震災からちょうど1年にあたります。9月6日の広島、9日の長崎の原爆と同じように、3月11日は日本国民にとって忘れられない日になりました。今でも避難者は34万人あるそうです。先日、わたしの母の友人の家で火事がありました。家人は一階にいて、二階から出火して上が全焼してしまったそうです。原因はコンセントだったそうです。コンセントのまわりに細かい綿ほこりが付着していて発火したそうです。掃除しておいたら防げた家事でした。震災も自然現象であり避けることはできませんが、家財全部を捨てて、直ぐに逃げた人の多くは助かっています。旧約聖書エゼキエル書3章16節以下には、警告の大切さを説いています。「人の子よ、あなたを家の見張りとする。わたしに代わって警告しなければならない。人が悪の道を離れて命を得るように諭さなければならない。」このあなたは、誰のことをのべているのでしょうか。単に、被害の被災者だけでしょうか。
旧約聖書の日課は、有名なモーセの十戒ですが、そこの後の部分には、「神が来られたのは、試すためであり、神への畏れをおくためである」聖書の思想は一貫しています。申命記5:33「あなたは主が命じた道をひたすら歩みなさい。そうすればあなたは命と幸いを得る。」神が望んでいることは、わたしたちを災いから救い、命と幸いをあたえることだと、わたしは確信しています。使徒書の日課であるローマ書にも「信仰は聞くことによって始まる」とあります。命の道、生きる道は、御言葉を聞くことから始まるわけです。
では、福音書をみてみましょう。ヨハネ福音書2:13以下です。過ぎ越しというのは、古代イスラエルの時代にエジプトで奴隷化されたユダヤ人が神の特別な助けを得て、エジプトを脱出して逃げ、自由を得た故事を祝うお祭りです。その時からすでに3千2百年以上経過しています。ユダヤ人はこの出来事を毎年お祝いしていました。それが、ご存知のようにキリスト教の復活祭の起源となったものです。古代イスラエルでは、政治的奴隷状態からの解放をいわったのですが、イエス様の十字架のあとの復活を祝う復活祭は人間の霊的解放を祝うものです。
イエス様の思想は、旧約時代の聖書の思想と全く同じであり、人類に命と幸いをあたえることでした。そのためには、「命と幸い」以外のものを取り除かなければなりません。病気の場合も同じです。悪性の腫瘍が見つかったら、外科医はそれを手術して取り除かなかれば、患者は生きることができません。神は、人間に痛みを与えることがあるかもしれません。でも、それはわたしたちが生きるためではないでしょうか。神はイエス様に十字架という苦しみをあたえました。それは、しかし、生きるため、永遠の命を与えるためでした。それは第一ヨハネ5:13にあるように「神の子イエスを信じる者に、永遠の命を得ていることを悟らせるためです。」生きるためには、命に反するものが取り除かれる必要があります。
イエス様は、神殿から羊や牛、鳩など、供え物の為に売られていた商品を追い出しました。神殿が神の場所であり、命を与える場所であることが忘れられ、誰がどんなに高価な供え物をしたとか、どんなに立派だとかに意識が迷っていたからです。旧約聖書にも本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)と書いてあります。イエス様が神殿の境内の売店や両替に対して否定的だったのは、彼らの思いが利益や外観や、人間の敬虔さばかりを追求していて、神への愛が欠けていたからでしょう。現代でも同じです。礼拝において神への愛、心からの感謝、これがもっとも大きい供え物です。これ以外にはない。それが、命と幸いのみちであって、その他の不必要なもの、悪性腫瘍のように害悪を及ぼすものは、神さまによって取り除いていただかなくてはなりません。
イエス様の改革は神殿の供え物だけではありませんでした。神殿そのものが壊れてなくなるもの、つまり、神のものではなく、人の手で作ったものに過ぎないことを明らかにしたのです。しかし、当時の最高の宗教権威ですらこのことが理解できず、「神殿建築には46年もかかったのになんで3日で立て直すことができるのか」と質問したのです。もともと、神殿というものはいすらえるにはなく、幕屋と呼ばれるテントでした。それが、ソロモン王のときに第一神殿が建設されたのですが実際に準備したのは、ダビデ王でした。当時の様子は、旧約聖書歴代誌上29:1にダビデの言葉として「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」と書いてあります。そして、ダビデは自分個人が財産を金3千キカル寄贈した、家来たちよ進んで神のために寄贈するものはいないか、そう訴えたのです。すると、部族長や、長官や、軍の隊長などが次々に寄贈し、その総額はダビデ王の額を上回り、なんと金5千キカルに達したと書かれています。一キカルは34.2キロですから、これは171000キロ、171トンに及ぶ膨大な額であったのです。現代の金額にすると、8千億円です。ダビデ王の分を加えると1兆3千億円でした。そのほかに、宝石、銀、当時は貴重だった鉄も3千トン寄付されていますので、おそらく何兆円にも及ぶ神殿工事だったことがわかります。それは山を半分削って、縦500メートル、横250メートルに及高さ30メートルくらいの平らな基礎を作りその上に巨大な神殿を建てたのです。ですから、イエス様が神殿を三日で立て直すと言った時に誰もそれを信じなかったでしょう。ですが、本当はイエス様が言っているのは、神殿を建てたときのダビデ王の主旨のことです。「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」、つまり神への限りない愛の献身なのです。そのためには、他の不純物は一切不必要です。牛もいらない。鳩もいらない。金もいらない。本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)
ここにしか、本当の命と平和、命と幸いはない。聖書は警告しています。あなたは生きなければいけない。あなたの人生は幸いなものでなければいけない。だから、発火しやすい埃のような不必要なものをイエス様に取り除いていただく必要がある。「キリストは教会を清めて聖なるものとしてくださる」(エフェソ5:26)と約束されています。十字架の清めを信じ、わたしたちも命と幸いに既に入れられていることを感謝しましょう。「神が清くしたものを清くないと言ってはならない」(使徒11:9)とあります。それがわたしたちの確信でなければいけない。イエス様はわたしたちの心の中の神殿も既に、信仰によって清めてくださっているからです。確かに、震災、病気、困難悩み、そして十字架は耐え難い大きな試練です。しかし、それは同時に、わたしたちの雑多な心が清められピュアな神への愛に励まされる救いの時でもあるのです。自分の人生は自分のためにあるのではなく神の為、つまり愛するため、命を育むため、光を闇に輝かせるためにあることを覚えましょう。
説教:中川 俊介
牧師