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2018年9月23日日曜日

~説教~「暗闇から光へ」


「暗闇から光へ」          

ヨハネ9:13-25 

 

旧約聖書では、光とは、幸福と救いを象徴するものです。新約聖書では、旧約と同じ考えがあると同時に、光を悪に対立する善として考える傾向があります。最近は計画停電というものがあって、懐中電灯の光やローソクの光りに頼っていると、何が明るくて何が暗いのかという目の前のことについては大変に敏感になっています。先日は成田空港に行ってきましたが、帰りの高速道路は真っ暗でした。わたしたちは自分にとって何が光であり、何が闇でしょうか。先週は5人の夫を持った女の人の個人的な苦しみに触れる聖書個所でした。今回は視覚障害を持った人の個人的な苦しみに触れる個所です。このなかでの、光と闇を考えてみましょう。

まず、第二ペトロ1:7以下に「信心には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい。そうすればわたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。しかし、これらを備えていない者は視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています」と書いてあります。視力は物理的な視力ではなく、霊的に物を見る目のことを示しているといえます。5人の夫がいたサマリアの女もイエス様に会うまで、信仰心はあったのでしょうが霊的な視点がほとんどありませんでした。この霊について聖書では、キリストによって命をもたらす法則であるとローマ8:2に書かれています。つまり、イエス様との真の出会いが霊的な出会いだと言えます。

さて、生まれつき目が見えず、道端に座って物乞いをしていた人が、イエス・キリストと霊的な出会いを体験しました。それまでは、何か悪いことが起こると、天罰だとか、本人の努力が足りなかったとか、本人の責任だとか、あるいは両親の過ちによる家庭環境の問題、などが説かれるのが普通でした。ところがイエスは、そうした責任追及、犯人探しの姿勢に対してはっきりノーと言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)と答えられるのです。つまり、人生最大のマイナス、最も苦しい事柄、誰でもさけたい屈辱、激しい痛み、最大の暗黒は神の栄光の業を表す過程だと宣言したわけです。そこには十字架の奥義が隠されていると言えます。

イエス様は、この人にシロアムの池で目を洗い、当時のユダヤ教の規定通りに祭司に報告して承認してもらうように勧めました。彼は、言われた通りにしました。彼は何も疑問に持たずにイエス様のお言葉に従いました。目は見えなくても、きっと、イエス様の言葉の中に溢れてくる愛を感じたのでしょう。

この劇的な視力回復という癒しの後で、ファリサイ派による、この元盲人の人への尋問が始まりました。ファリサイ派の人々は、まず、この出来事が、いかなる行為もしてはならないと定められている安息日に起こったことを問題にします。「目が見えるようになる」という喜ばしい出来事そのものを無視します。喜びではなく、物事が規則どおりになされたかどうかを厳しくチェックすことだけが大切なのです。安息日に禁止される労働の一つに「練り粉をこねる事」が含まれていました。イエス様が、その日が安息日であるにも関わらず、唾でこねた泥(練り粉をこねている)によって治療しているので、この癒しの業は律法違反を含んでいると考えられました。彼らにとって、この男が一生見えなくても、あるいは物乞いもできなくなって死んだとしてもかまわなかったのです。彼らの心は冷たくなり愛がなかったので、この小さな男は存在しないも同然でした。

ファリサイ人のように、すばらしいことが起きたのに喜べないというのは、どうしてでしょうか。妬みが考えられます。ファリサイ派は、自分たちにはすばらしい神の恵みを体験できずにいる。しかし自分たちが「罪人」として見下しているこの男が、神の業を経験した。そのことに対する妬みを持ったのです。この妬みについて、竹森満佐一先生は次のように解説しているそうです。妬みの原因は、「神から誉れを受けようとしないで、人から褒(ほ)めてもらおうとする思い」であると。ファリサイ派の問題点は妬みだけでなく、わたしたちの問題点でもあり、罪の根源です。人間に褒められたいいう人間中心主義とも言えます。褒められたいから盗んだり時には殺したり、傷つける。それは神ではなく人間に栄光を期待する態度ではないでしょうか。

 さて、ファリサイ派の中の間に裂け目、対立、ジレンマがあったことがわかります。イエス様を否定する者と、神の働きを肯定する者が議論したのです。両者の意見が分かれたままなので、本人の意見が求められると、彼は「あの方は預言者だ」と証言しました。聖書は、この卑しめられ、不幸のどん底にあったような人が生まれ変わって、自分の言葉で神の業を証ししている事にスポットライトを当てています。受け身で被害者だった人間が恐れを持たない能動的な人に生まれ変わったのです。この元盲人の人が、目を開かれ、彼を取り巻く「悪」の現実を見る事になったのです。彼はイエス様と出会い、イエスによって霊的な目を開かれることによって、「悪」が「悪」であることが見えるようになったのです。イエス様による癒しは、隠されていた悪の姿を暴露したのです。

 主イエス・キリストは、私たちが本当に見えるべき事を霊的に見えるようにして下さる方です。かつて目が見えなかったけれども、今は見える。これはイエス様の働きです。わたしたちの努力や知識にはよりません。ファリサイ派をみると如何に多くのことを知っていようとも、イエス様を知らないということがどんなに人間の心や考えを歪めてしまうか、どんなに欠如に満ちた人間にするかということを思わされるのです。イエス様を知っているか、知らないか、そのことでこの世が二分されてしまうということなのです。ですから闇とはファリサイ人たちです。闇とは愛のない姿、喜びのない人生です。闇とはこの世の知恵です。光とは救い主です。見えるとはイエス様を知っていることです。いや、イエス様に知られていることです。それを信じるならば、私たちは今までとは違う生き方をすることになります。それは今まで大切に持っていたものを失うという一面もあります。しかし、私たちがこの世で何かを失うとしても、イエス様は私たちを求めておられ、今も私たちを捉えて離さなず、安息日の祝福を与えて下さる方です。なぜなら、礼拝を通してイエス様はわたしたちに出会ってくださるからです。イエスさまにとっては、安息日は、極めて良い日、最高に祝福された日、喜び多い霊の日でした。この男の癒しはわたしたちの癒しでもあります。なぜなら日曜日はキリストによって命をもたらす法則による霊の日だからです。この日には、盲人がキリストの言葉に従ったように、わたしたちも思い煩いを主にゆだねて、主に従い主を礼拝しましょう。聴き従うところに主の祝福と癒しがあります。この日曜日の礼拝そのものに、主イエス・キリストとの出会いの光があり、闇は消え癒しが実現し、わたしたちもキリストの福音を告げるものとされます。



説教:中川 俊介 牧師

2018年9月9日日曜日

~説教~「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」


「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」  

マルコ 7:24-30 2018.9.9



蝉は短くても3年長いものは17年地中にいて、ほんの数週間地上で鳴いて夏の終わりには死に絶えます。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」一茶はそのはかない命に自分の人生を重ねてみたのでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。長いようで、実は短い人生を生きているのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか。

しかし、長いようで短く、苦しみに満ちた暗黒の時間の旅の果てに必ず神は、悲しみを喜びに変えてくださいます。夏の終わりの蝉をみて感じるような人生の空しさを覚える時に、神はそのめぐみの姿を示してくださいます。40年の出エジプトの砂漠の旅がそうでした。

イエス様は、人生の暗い谷間をさまようような、蝉の暗い地中での生活のような、社会の底辺にいる人々に伝道していたようです。福音書では、汚れた霊に取りつかれた人、悪霊に取りつかれた人、病人、らい病人、中風で体が麻痺した人、手が動かない人、墓場を住まいとした人、12年間も婦人病で出血が止まらない人、耳も聞こえない人、目の見えない人、夫が死んで生活できなくなった女の人、姦通の罪を犯した女、収税人、罪人、犯罪者など、イエス様が助けた、暗闇の生活で苦しんでいた人々は数限りありません。

でもなぜ、イエス様は金メダルを勝ち取るような努力家、健全な魂の人、正統派ではなく、地中の蝉のようなはかない社会の底辺ともいえる人々と交わり、神の福音を伝えたのでしょうか。

聖書を見てみましょう。最初に、イザヤ書です。35章2節に、「人々は主の栄光と神の輝きを見る」と書いてあります。それは、頑張りなさい、という励ましではありません。努力しなさいでもない。神の力です。これはペトロが行っていることと同じで、「今しばらく試練に悩まなくてはならないが、その試練によって精錬され、金より尊いものとなる」(第一ペトロ1:7)人生の荒地、蝉の地中生活とは、逆説的に、そこに命を与えはばたかせる神の栄光を見る場と言えるでしょう。だからこそ、イエス様は底辺にある人々に福音を伝えたのです。その人たちが、逆説的に一番早く神の栄光を見るからです。これが福音です。

その福音のために、イエス様と弟子たちは故郷のナザレからは何日も歩かなければ辿りつけない地中海沿岸の港町、ティルスにまで来ていました。ティルスはイエス様の時代の何百年も前に栄えた大都市でした。この港町は有名なレバノン杉の輸出,貝からとる高価な紫染料の生産などが有名で、神殿や大邸宅などがあり、道路は石で舗装されていました。ティルスは最早ユダヤ人の領地ではありませんでしたが、当時のほとんどすべての大都市にはユダヤ人が散在していましたから、そうした人々に、イエス様は聖書を通して神の存在と神の栄光を伝えようとしたのです。

そこで出会った母親はユダヤ人ではなく、ギリシア系でした。そして、そのことはイエス様にとって彼女が異邦人だったということです。ですから、ここでは、最初の目的のユダヤ人のための神の栄光を示す奇跡ではなく、ユダヤ人には禁じられていた異邦人との接触をイエス様がどのように行ったかが出ているわけです。最初、女の願いに対してイエス様はなにも答えなかったと書かれています。そして、女があまりにも願うものですから、「子供たちのパンをとって子犬にあげてはならない」といいました。つまり、イエス様はユダヤ人のための伝道に来たので、パンは福音のことです。この女に聖霊に満たされた信仰心というものがなかったなら、そこで話は終わっていたでしょう。

ところが、この異邦人の母親は、イエス様という人が、異邦人の救い主でもあることを信じていました。だから「主よ」と言ったのです。おそらく、イエス様が、神の愛は平等であると教えておらえたことを伝え聞いていたのでしょう。実際にイエス様は、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と教えたのです。悪人をも愛してくださっている。それはどんな悪人でも、人間環境の産物であり、悪魔の支配下に置かれた犠牲者であることを神は知っているからでしょう。例えば、犯罪者の生い立ちを調べてみると、そこには、ネグレクト、家庭内暴力、いじめ、障害などの苦しい過去があることがわかっています。犯罪者は、犯罪や暴力の犠牲者でもあるのです。犯罪だけではありません、人間の悪い習慣というものも、遺伝的なもの、環境的なものが大きく影響しています。神はすべての人を愛しておられるのです。勿論、わたしたちも愛しておられる。しかし、これを知らない人々は多い。

さて、この女性は神の愛を信じ、子供が癒されるために、必死でイエス様に願いました。変えられないものを変えて欲しいと願ったのです。それも非常に謙虚な姿勢でした。だいたい、イエス様が語った「小犬」という表現は相手を人間と見ていない、軽蔑した言い方です。イエス様はユダヤ人でしたから、ユダヤ人が普通に考えていた異邦人観を述べたのにすぎません。まず、母親は、イエス様から、これはユダヤ人伝道であって異邦人は考えていないと言われ、「主よお言葉通りです」(口語訳)と答えました。新共同訳の「しかし」という否定語は原語にはなく「そして」になっています。まさに服従です。神様の命じられることに対する従順な気持ちです。彼女は怒らなかった。服従によって神の否定を肯定としたのです。それと反対に、神を脅かしている信者もいるとある牧師が語っています。自分の願いをかなえてくれないならば、もう教会に来るのはやめます。一応出席はするけど献金はしません。一応献金はするけど、自分のあまった金だけにします。そういう態度です。

イエス様の前にひれ伏した母親は、従順であり謙虚でした。そして、イエス様が子犬の喩えを語った時も、それを面と向かって否定しませんでした。ルターはこの話が好きだったそうです。信仰とは「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」のを見ることだからです。この母親はイエス様の愛を信じ、「パンくずでもいただけないでしょうか」と何度も迫りました。これはまさに、イエス様が教えた信仰の姿勢でした。イエス様の譬えで、ルカ11:5以下、真夜中の訪問者の例があります。客が長旅を終えて着いたのですが、家では食料を切らしています。空腹で寝かせるわけにはいきません。そこで隣の家に行って、どうか食べ物を貸してくださいと言います。答えは、「面倒をかけないでください。子供も寝ているので騒がせないでください。」ここで終わるでしょう。しかし、イエス様は教えました。続けなさい。食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。何度も繰り返されると、どうでしょうか。わかった、わかった、貸しましょう。いや、本当にあなたの熱心さに負けました。まさに、「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」ですから、わたしたちにできることは蝉のようにミンミン鳴き続けることではないでしょうか。神に求め続けることです。神は無視(虫)をも無視しません。求めよ、さらば与えられん。これが、イエス様の教えた信仰の中心です。それは、イエス様ご自身の生き方でありました。

わたしたちにもイエス様の前に跪き、謙虚に求め続ける信仰さえあれば十分です。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」蝉の地中での17年間のあとで神は栄光を示してくださいます。喜びを与えてくださいます。もしかしたら、夏の終わりに落ちても鳴くセミも、実は最後まで感謝の声を上げているのかもしれません。「否定的な状況の裏に神の絶対肯定が隠されている」からです。わたしたちも最後の最後まで謙虚に救いを求め続けましょう。



説教:中川 俊介 牧師

2018年9月2日日曜日

~説教~「大の字に寝て見たりけり雲の峰」


大の字に寝て見たりけり雲の峰    

マルコ 7:1-15 2018.9.2



小林一茶の俳句です。大の字になって夏の終わりの空を見上げれば、大きな入道雲、その偉大さに自分がいかに小さなことに悩んでいたかを知らされるのです。これは一茶が55歳の時の句です。今なら平均寿命を超えた年です。一茶はその年、長野から旅行し隅田川で花火を見たり、遠く千葉の海辺に友人を訪ねたりしました。広い世界を見たのでしょう。それに前の年の文化13年、1816年には、54歳になってせっかく授かった長男が生後間もなく亡くなってしまうという悲しい出来事もありました。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」その背景に思いをはせると感慨深いものがあります。

福音書の日課の最初の部分を見ますと、イエス様の弟子たちの何人かが、律法の儀式に従わず、不浄な手で食事をしていたようです。その時に、エルサレムから律法の専門家が来ていたものですから、それを問題視しました。ここでマルコ福音書は、清めについて説明をしています。これはユダヤ人にとっては当然のことでした。2千年前のユダヤ人にとって、食べ物にかかわる律法が厳しく守られていたことがわかります。タコ焼きはダメです。鱗のない海産物は禁止です。ひずめが割れていて、はんすうする動物だけ食べるのが許されていました。例えば豚はひずめが割れているけど反芻しないので穢れた動物でした。また、手を洗うことは、律法に従う社会的な決まりでした。ですから、エルサレムからきた律法の専門家には、イエス様が弟子たちに律法の決まりを指導していないと感じられたのです。聖書では、このことを「昔から受け継いで固く守っていること」と書いています。聖書の教えにはなかったのです。この書き方に意味が込められているのは、愛の神が教えることではないのだということです。人間社会の決まりです。それを守らない者は排除されたり、悪く言われたのです。つまり、この人間規則とは、人と人、人と神の間に壁をつくる人間の伝統だったのです。

現代社会で、壁をつくる名人はアメリカのトランプ大統領です。第一はメキシコとの壁。3000キロの国境にフェンスはあるがこれを10メートル近い壁にする案。またほかにも22兆円の対中関税という壁。移民の強制退去法などの法律の壁。昔のユダヤ人も同じでした。ユダヤ人は勿論、規則優先でした。それを、マルコ福音書の記者は、「昔から受け継いで固く守っていること」と表現しているのです。

エルサレムから来た律法の専門家たちは、イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と批判しています。実際に泥で汚れたわけではなく、人間が決めた清めの儀式をしてないだけです。ここではっきりしているのは、彼らの考えは「人の言い伝え」であって、聖書には手洗いの儀式を教える神の定めではないことです。どんな社会にも不合理な「人の言い伝え」があるのではないでしょうか。これに反すると処罰されます。イエス様が後で処刑されたのは、人間の定めた儀式や法律に反していると見られたからです。しかし、マタイ23:4にあるように、律法は当時多くの人にとって「背負いきれない重荷」になっていました。例えば、好きな人がいても、相手が異邦人だったり、宗教が違ったり、罪人と呼ばれる人々だったら、結婚は無理だったことでしょう。日本でも士農工商、穢多非人、という階級制度の壁がありました。穢れというのは殺生を禁じた仏教の考えに違反する職業を排除しているのです。例えば、革職人です。

さて聖書で、律法に違反しているという批判を受けたときのイエス様の答えはどうだったでしょうか。イエス様は、「人の言い伝え」ではなく聖書から引用して答えました。聖書です。聖書を読んでも、理解できないと壁ができます。ユダヤ人たちがそうでした。その聖書には、人間がおちいりやすい誤りが書かれていました。それは、人々が「人間の戒め」を大切な教えとして、人に重荷を負わせることでした。愛の神とは一切関係ない規則を最優先してしまうのです。パウロもガラテヤ書で、自分は「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラテヤ書1:14)と述べているくらいです。その結果、パウロは若いころ冷酷な迫害者になっていました。

そこでイエス様は決定的な言葉を批判者に返しました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」これはイエス様がイザヤ書を深く理解していたことを示します。では、イエス様の言葉の、もともとの原典であるギリシア語ではどうでしょうか。そこには「アフェンテス テーン エントレーン トー テオー クラテイテ テーン パラドシン トーン アンスローポン」となっています。パラドシンの逆はパラドックスで、受け入れられないという意味です。「神の戒めを置き去りにして、人間が伝承し、受け入れてきたものが支配するに任せている」という意味です。ギリシア語は意味が深いと思います。似てるけど違う。日本語訳では、人々が神の定めを捨てたり、人間の定めを守ったりしていると理解できます。人間主体で書かれている。こうした人間中心性が、実は、人間をさばき、争い、自分を裁き、苦しめるのです。ところが、ギリシア語訳では、後半が違う。神と離れた勢力、つまり、サタンの支配にすべてを委ねている、サタンに服従しているのが問題なのです。

これが苦悩の原因です。イエス様はそれを人間の中から悪い思いが出て来ると教えました。これが人間の壁の原因です。この原因を見ない限り悩みや争いはきえません。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」一茶は、高齢になってやっと願いが叶って生まれた長男が死んでしまったり、願うようには人生が運ばないな、と沈んでいたでしょう。人間界の下ばかり見ていたでしょう。ところが広い草原に大の字になって空を見上げたら。青い空と大きな白い雲が、自分にとっての大きな悲しみを小さなものに感じさせてくれたのです。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」その問題は、2千年前の問題ではない。小林一茶の問題ではない。実は、わたしたち自身の問題でもあるのです。自分を愛すること、隣人を愛すること、神を愛すること、だけが大切です。しかし、その前に、まず神の愛を知るからできるのです。神は一人子をお与えになったほどに、この世を愛された、一人子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」まさに、わたしたちに必要なのは、この神の愛を見上げることではないでしょうか。あまりにも地上に向きすぎてはいないでしょうか。あまりにもこうでなくてはならないという人間の掟に縛られて、自分を苦しめ、他者を苦しめてはいないでしょうか。人間中心性が、心の中に合って、実は、人間をさばき、争い、自分を裁き、苦しめるのです。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」、これをわたしたちがキリスト教観点から詠んだらこうでしょう。「大の字に寝て見たりけり神の愛」「大の字に寝て見たりけり神の愛」これさえあれば、他の事はどうにかなるものです。すなわち神の愛の支配にお任せすることなのです。申命記にある、いつ呼んでも、近くにおられる神、この愛の神にお任せすることなのです。

ルターは言いました。人間には二種しかない。生まれつき遺伝的に、悪魔に支配されている人間か、神に支配されている人間のどちらかだ。礼拝できていることは、神の愛に包まれている事、「大の字に寝て見たりけり神の愛」を体験することなのです。


説教:中川 俊介 牧師

2017年9月3日日曜日

~説教~「亡霊と神との違い」



「亡霊と神との違い」        

マタイ14:22-33 2017.9.3

 

今日は亡霊について考えてみましょう。前にもお話ししましたが、イラクに「バクダッドの死神」というお話があります。ある商人が召使を市場に買い物にいかせました。しばらくすると召使が真っ青な顔をして帰ってきました。そして、主人に馬を貸してほしいというのです。どうしたのだと尋ねると、市場で死神を見かけたが、その死神が自分を驚かすようなしぐさをしたのだと言います。そして、自分の故郷のサマラまで行けばその手を逃れられるだろうと言ったのでした。主人が馬を貸すと召使はサマラに逃げました。その後、商人が市場に行くと、死神を見かけたので、「何故、召使をおびやかすようなしぐさをしたのだ」と問いただしました。すると、死神は、「別に驚かせたのではない。実は今晩サマラで彼に会うことになっていたのに、バクダッドで出くわしたから、こちらも驚いたのだ。」察しの良い人はすぐわかりますね。つまり、この話の要点は、召使が逃げたことによって予定通りサマラで死ぬことになってしまった訳です。死の霊からは、逃れられないということを教えています。

今日の福音書の日課では、イエス様が弟子たちを船に乗せ対岸に送り出したとあります。そのあとガリラヤ湖の周辺に大風が吹いて海が荒れたわけです。天候の急変と言えば、最近、埼玉県の局地的豪雨で、柳瀬川が氾濫して釣り人2人が孤立し、一人は救出されましたがもう一人は残念ながら流されました。この川は、わたしも子供の時に釣りに行ったことがありますが、普段は全然危険な川ではありません。しかし、雨や嵐のような突然の自然現象が人間の想定を超えることがあります。おそらく、いつもガリラヤ湖で漁業をしていたプロだった弟子たちで、色々な危険には遭遇していたでしょうが、彼らを悩ませる逆風は想定外であり、流されてしまいいつまでたっても対岸に着けなかったのでしょう。

ある神学者は言います。「われわれは一度沈みかけなくてはいけない。」自然現象や、人生の試練によって沈むこと。一昨日は金井章子姉の葬儀でしたが、91年間のご生涯で、故人略歴をみると沈むことが何度もあったように感じられました。そのことのゆえに、金井さんは救い主に出会っているわけです。沈むことなくては、人間は自分に自信を持っていますから、救い主に頼ろうとはなかなか思わないわけです。

さて、このイエス様の水上歩行の記事は海外のキリスト教国でも不信感や嘲笑を生みだしてきたそうです。生きた人間が水上を歩く、これは無理と考えられます。忍者のようです。しかし、この部分を福音的に読むと、そこには大きな慰めが発見できるのです。

この部分の順序を見ますと、まず、イエス様は一人になり祈るために山に登りました。ここで、弟子たちと別れたことが大切です。弟子たちが先生であるイエス様と別に行動しなくては、弟子自身の信仰が現れないからです。また、イエス様は弟子たちに起る突然の荒波の危険を予知しながらも、そちらに彼らを送った訳です。守ることをやめて、危険にさらしたのです。沈むようにさせたのです。これが、使徒書の日課にある「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマ11:22)ということです。厳しさです。神に優しさや、守りだけを期待すると、自然の厳しさ、人生の厳しさに接した時に、信仰を失うでしょう。弟子たちは、まさに嵐の中で信仰を失う瀬戸際だったと思います。ですから、わたしたちも、神の慈しみに満足するだけではなく、時に、神の厳しさに心をはせ、この厳しさの中で神は信仰を育て、岩のようにゆるぎないものとしてくださることを信じる必要があると思います。

弟子たちがまさにヨナの乗った船のような困難な状況にあった時に、イエス様は祈りを通して神と語り合っていたわけです。弟子たちが見ていたものは、荒れ狂う海だけでした。わたしたちも、困難の際には目の前の波や、悲惨な情景や、悲しみしか見ることはできません。自分の力で悲しみを希望に変えることはできないのです。

この弟子たちの苦しみをイエス様は既に御存知であり、憐れまれたのです。そして助けの働きをされました。水上を歩くというのは、旧約時代からある、自然現象を超越した奇跡です。出エジプトの時の海が裂けて、海の中を歩いてわたったという記事も似ているかも知れません。人間的には行き詰まりなのに、そこに神が活路を与えて下さるのです。パウロも自分は何度も死にかけたが助けられたと言っています。そして、ここでは船の近くに現れたイエス様を、最初、弟子たちは、認識できませんでした。幽霊や亡霊だと思ったわけです。幽霊や亡霊は、イギリス文学には多く登場するそうです。シェイクスピアの作品の中にも多く見られます。文学だけではなく実際にもあるわけです。8月には戦争体験のドキュメンタリーがテレビでたくさん見られましたが、かつてのビルマで行われたインパール作戦で3万人以上の日本兵が餓死したり、病気で死にました。それは、70年以上前のことです。それなのに、現地の人々は今でも、日本兵がそこに立っている亡霊を見るそうです。弟子たちの時代にも、多くの戦争や悲惨な出来事があったでしょうから、そこでは亡霊が現れたのかもしれません。突然、嵐の水上で、闇の中から現れたイエス様を見て、彼ら怯え、叫び声まであげたわけです。しかし、その時に、彼らの信仰はどうなっていたのでしょうか。亡霊への恐れは、究極的に死への恐れです。そして、すべての人は亡霊に呪われたような存在す。死に定められています。あのバクダッドの死神に狙われている者は、あの召使ではなくわたしたち自身なのです。これは恐ろしいことです。

このイエス様の場面は、死を恐れる人間の恐怖の叫びから、神の顕現と怖れを描き出す場面に大転換します。イエス様は「恐れるな。わたしだ。」と語りかけています。わたしたちが困難にまきこまれているときに、神は必ず「おそれるな」と語りかけてくださいます。旧約の日課では、逃げて行った預言者エリヤにも勇気を与え「行きなさい、あなたの来た道を引き返しなさい」と導いています。つまり、死と困難な場所に戻りなさい、そこであなたはわたしが主なる神であることを知る。さらに、あなたは、幽霊や、悪鬼、バケモノ、命を狙う者、憎しみと怨念の場所に戻りなさい、そこでこそあなたは、死の剣を持つ悪霊や亡霊ではなく、命の剣を持つ主なる神に出会うであろうというのです。やはり、「人は、一度沈みかけて」本当の神に出会うことはないのでしょう。

波に悩んでいた弟子たちは、イエス様を発見して、水の上を歩くことができました。しかし、すぐに荒れ狂う水面に目を奪われ、死の恐れに再び捕われました。そこで、「信仰の薄い者よ」と叱られました。ですから、わたしたちは人生の荒海しか見えなることが多いわけです。わたしたちは時にはサマラの死神しか見えない。わたしたちは実に弱い存在です。死に定められた存在です。しかし、イエス様はこのように罪深く、死に定められているわたしたち、悪霊やサタン荒海にのみ心を奪われているわたしたちに代わって、十字架にかかり、わたしたちが定められている死ぬべき死をわたしたちの身代わりになってくださったのです。そしてこの方を信じるだけで救われます。もう荒海も、死も、苦しみも恐ろしくないのです。何が起こっても平気です。パウロもそれを証ししています。この死からの救い主こそ、イエス・キリストです。死の亡霊に憑依され、苦しめられ、恐れ、悩まされがちなわたしたちを救うことができるのは、キリストのみです。


説教:中川 俊介 牧師

2016年10月23日日曜日

~説教~「後の者が先になる」

「後の者が先になる」

ルカ18:9-14 2016.10.23
  

今日の旧約聖書の日課である申命記には出エジプトという民族的な大試練の時に、モーセが神から受けた約束が書かれています。そこに書いてあるのは、神を愛し、神に仕え、神の戒めを守ることです。神に関することは、モーセの十戒の第一の石板にあることです。そして第二の石板にあるこの世の掟の大切な点は、隣人を愛し、隣人を差別せず、隣人を大切にすることです。そのときには、殺人も、盗みも、いじめも生じないのです。ですから、イエス様はこれを神への愛、隣人への愛と二つにまとめたわけです。そして、ユダヤ人たちはこの偉大な教えを受け継いでいたのですが、先の者が後になるというイエス様の預言通り、非ユダヤ系の人々に福音が先に伝えられたのです。

日本のことわざにも「老いては子に従え」とあります。「後の者が先になる」わけです。ただこれは、仏教の教えだそうです。特に、女性が、幼い時には親に従い、結婚したら夫に従い、夫の死後は子に従うという、三従の教えから来ているそうです。でも、我々は一般的に、年取ったら成人した子供の意見を尊重するという形で考えています。その一例ですが、わたしの母が体力的な問題で本郷ルーテル教会に行けなくなったので、地元の日本基督教団和光教会に転会しようかどうか迷っていた時がありました。その時は、和光教会で教会堂建設があって、多額の献金を求められるかもしれないから年金生活の自分は不安だというのでした。お前の意見はどうかと聞かれたので、教会が必要としているときに貢献できることは光栄なので、金額の多少は気にせず、是非転会してその教会に貢献したらよいと思うと言いました。母はその意見に従いました。それから数十年後に、母は和光教会の記念誌に自分の経験を書いて、我が子の助言に従い、少しでも教会に貢献できた喜びを表現していました。これは「老いては子に従え」ということでした。

さて、聖書の例話では、二人が神殿で祈ったという場面設定です。最初の人は自分の正しさを強調するファリサイ派の一人でした。モーセの十戒などは勿論よく知っていた人でした。このタイプの人が教会にいたら、みんなから尊敬されるのではないかと思います。礼拝は休まない、態度も親切で丁寧である。奉仕にも熱心で、集まりには最初に出てくるわけです。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」のモデルになった、斎藤宗次郎というクリスチャンがいたわけですが、そのような人だったと思います。宮沢賢治は「そういうものにわたしはなりたい」という言葉で詩を結んでいます。しかし、イエスさまの話の中では、自分は正しい者だとうぬぼれている人々の実例として、このような人物が描かれています。彼はそばにいた徴税人を比較して、このような罪深い人間ではないことを心の中で感謝します。つまり、自分が先のものだと思ったのです。イエス様のほかの例話では、農場で朝早くから働いた農夫が先のものであり、後から終了直前に雇われて同じ賃金をもらった農夫を批判したという話があります。この場合も先の者が後になったのです。今日の、イエス様の例話では、ファリサイ派の人は、徴税人に対して「奪い取る者、不正な者」と非難さえしています。確かに、彼の目から見たら、このことは当然でしょう。税を取り立てるということは、時には、無慈悲なことです。税金が払えなければ、財産は差し押さえられ、家は抵当に入ります。それを行うものは人々から嫌われていたことでしょう。

自分が正しいかどうか。これは大きな問題です。わたしたちは自分自身をどう判断するでしょうか。自分は放蕩息子のような存在か、それとも勤勉な兄さんのような存在なのか。朝から働いている農夫なのか、最後に雇ってもらった農夫なのか。判断は難しいものです。ただ、イエス様の例話で分かることが一つあります。先のものだと自負している者の心には、「徴税人、つまり悪人に対する非難」が存在することです。これは、イエス様の例話に共通することです。つまり、人間というのは例外なく「自分は先の者」であると思い、ファリサイ派の人のようになっているのではないでしょうか。ノーベル文学賞に決まったアメリカの歌手ボブ・ディランが賞を全く無視しているので批判されています。ただ彼は、偉いとか偉くないとかが嫌いですから、自分たちが勝手に賞を決めておいて、頭を下げて感謝して受け取れというのが気に入らないのかもしれません。ちなみに、フランスの哲学者サルトルも受賞が決定しても、賞は受け取らなかったそうです。高いものを称賛することは、逆に劣った人をみて、軽蔑することに関連します。イエス様はこのようなカースト制のような社会構造、そして人間の差別化の意識に反対した最初の人だと思います。だから、「後の者が先になる」と教えたのです。そして、自分も後の者、最も軽蔑され、憎まれた罪人として十字架にかけられたのです。

さて、どうして、わたしたちはイエス様と違って自分の価値を、他人との比較においてしか見られないのでしょうか。わたしたちの文化全体もイエス様の時代のユダヤ人社会とおなじ差別化の社会なのです。ルールなどを背景にして、それに合わない人々を排除するのです。学校でいじめがおわらず、いじめで自殺した少女の写真が賞に選ばれても「祭りの趣旨にふさわしくない」と初めは拒否した行政があったりするのです。イエス様の例話では、弱くて自殺しか方法のない者は、まさに後の者なのです。

イエス様の例話の徴税人には悔い改めしかありません。彼の口癖は、主よ憐れみたまえです。彼は人に迷惑をかけ、人を苦しめ、神さまの戒めを大切にせず、好き勝手に生きていました。自分の行いを冷静に見てみると、もう神さまの前に、裁かれることしかやっていないのです。神殿では、下を向いて「わたしを憐れんで下さい」と、かろうじて呟いただけでした。いわば彼のツウィッター常用語は「わたしを憐れんで下さい」であり、礼拝のキリエ・エレイソンと同じです。ルーテル教会の礼拝にこの言葉が残されているのは、世界遺産のように大切な文化遺産だと考えてもよいでしょう。つまり、わたしたちの礼拝の原点は徴税人と同じだということです。神の前で何も誇るものがない者の集まりです。しかし、神は神の前で無価値であることを認める人を救ってくださいます。
 
イエス様の結論はこれです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここに救いがあります。弱いことが恵みであり福音なのです。誰も偉くなく神だけが礼拝される集まり、それが教会の本質です。どんな人でも気軽に来れる教会。遅刻してもいいし、用事があれば途中で抜けてもいい。奉仕に熱心な人も、奉仕できない人も互いに受け入れ合っている教会。問題があっても、それを批判せず自分と共通の問題として、受け入れ合い、赦し合っている教会。どんなに罪が重くても自分が神様に愛されているとハッキリわかる教会。「弱くてよかった、弱いことは恵みですね」と互いに言いあうことができる「後の者が先になる」教会。共に主よ憐みたまえと、キリエを唱え、共に聖書を学び、共に祈り、共に福音を伝えていく教会。そのような家庭。そのような社会。その恵みをイエス様は伝えたかったのでしょう。



 説教:中川 俊介 牧師

2016年9月4日日曜日

~説教~「百分の一だって大切なんだ」


「百分の一だって大切なんだ」

ルカ15:1-10 2016.9.4



イエス様は多くの教えを例え話で語りました。それも、聴衆を意識してのことです。最近、都知事選がありましたが、落選した候補者の多くは、決まり文句をどの場所でも、どの年代の人にも語っていたそうです。イエス様は違いました。どのような人が聞いているかということを念頭において語ったのです。

では、今日の日課の聴衆とは誰でしょうか。聖書には、多くの徴税人や罪人が集まったと書かれています。徴税人は、支配国ローマの税金を取り立てる「裏切り者」でした。また「罪人」というのも安息日の律法などを守れない「律法違反者」のことでした。彼らは、社会の底辺の人たちでした。差別されていた人たちでした。それらの人々はイエス様の近くまで集まってきてイエス様の教えを聞こうとしていました。きっと、心に渇きを覚えていたのでしょう。

しかし、別の聴衆として、社会の上流にいる人々、つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、相手にも聞こえるように大きな声で不平を漏らしたのです。イエス様が罪人の側の人だったからです。彼らには、罪人に対するイエス様の愛は理解できなかったのです。そこで、イエス様に対する批判をはじめました。罪人の側に立つとは、当時の、「正しい」人々には考えられないことでした。アパルトヘイト、つまり分離政策だったのです。これはイエス様の時代に限りません。南アフリカも、アメリカもアパルトヘイト政策をとっていました。黒人と白人はバスに乗っても席は違うし、建物の中のトイレも別でした。現代では、アメリカの大統領候補のトランプ氏がアメリカとメキシコの国境に大きな城壁を作るべきだと発言していますが、これもアパルトヘイト政策に似ています。イエス様の時代の社会も同じようにアパルトヘイトでしたが、そこでは、「正しい人々」と「正しい人々」を分離していたわけです。

そこで、イエス様は例え話で教えました。羊はおよそ動物の中で一番無防備と思われます。小動物すら外敵から自分を守るための能力を持っています。前に話しましたが、水族館で見る弱い魚、鰯でさえ群れを成して自分たちの敵を威嚇します。ところが羊は、群れで威嚇することもできません。メーメー鳴くだけです。一列に進んでいくと、崖から一匹ずつ落ちてしまう愚かな動物です。

この譬えの強調点は、99対1ということです。99というのは、聴衆の中では、律法学者やファリサイ派の人々のような、自称「正しい人々」を示しています。そして、迷い出た1匹は、原語のギリシア語では、アポルオーと書いてあって、これは単に迷い出ただけではなく、社会から置き去りにされているとか、救われないで滅びる、あるいは派生語のアポルオンになると悪魔という意味です。また、孤立していたという事は、神との交わりを失ってさまよっていたことです。ですから、この迷った羊の例でイエス様は、徴税人や罪人を示したのは確かです。彼らは悪魔のように思われていたのです。そして、イエス様はこの羊には、見つかるまで探してくれる羊飼い、見つかったら背中に背負ってくれる羊飼い、家につれ帰ったら近所の人を集めて盛大な祝賀会を開いて喜んでくれる羊飼いがいることを示したのです。イエス様の伝道の基本点はまさに失われた魂、神の大切な宝を見つかるまで探すことでした。「人の子は失われたものを探して救うために来たのである」(ルカ19:10)

その後で、例え話の核心を語りました。つまり、悔い改める1人の罪人「正しくない人」に対して、悔い改める必要のない99人の「正しい人々」より多くの共同の喜びが天国であるというのです。それは、自分を正しいと主張していて、実はアパルトヘイトをやっていた人々への痛烈な皮肉だと考える学者がいます。確かに、聖書は一貫して「正しい人々」はいないと教えているわけです。

次の、なくなった銀貨についての話も同じです。ちなみに、ドラクメとはギリシア通貨の呼び方で、ローマ通貨のデナリオンと同じ価値だそうです。つまり、一日の労働賃金に匹敵するものです。1円や5円ではないので懸命に探すでしょう。そして見つかったら、近所の人を集めてお祝いがあるのです。共同の喜びです。この話の要点は、死んでいたようなもの、あるいは悪魔に取りつかれていた者が、救い主の助けで復活するという方向転換がきて、神の家に帰ってくるときに、喜びが満ちるということです。教会というのはまさに、この喜びの家なのでしょう。大人数が集まるから良いのではなく、たった1匹の少数でも、神が支え、運び、喜びをあふれさせる場所が教会だと思います。

わたしたちは、生まれつき罪がありますから、自分を「正しい人々」の一人と見やすいものです。「正しくない人々」の側に入りたくないわけです。しかし、イエス様は罪人の側の人だったのです。99匹の側では、イエス様とは無関係になってしまいます。そこで、自分が99匹の多数派に属するか、それとも悔い改めた1匹のほうに属するかは、その人の持つ喜びで計ることができます。律法学者やファリサイ派の人々は批判をしましたが、喜びを持っていませんでした。しかし、神が望むのは批判でなく愛と喜びなのです。

さらに、ここで大切なのは、1匹の羊が悔い改めたという事です。イエス様から見たら律法学者やファリサイ派の人々さえ、迷い出た羊です。ただ彼らは悔い改めていません。「悔い改め」とは「方向転換」のことです。神の愛と喜びから離れていたところから、もう一度神の喜びに戻ることです。ただ、果たして人間は自分で悔い改めできるのでしょうか? できません。悔い改めには仲介者、羊飼い、がどうしても必要です。今日の旧約聖書の日課でも、モーセが神様の怒りをなだめています。このモーセの姿は、イエス様の姿の予兆です。十字架上のイエス様は言いました、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)実は、例え話の中心は羊ではなく羊飼いです。使徒書の日課をみますとパウロの体験が書かれています。「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」、つまり羊飼いであることを悟ったのです。たった1人でも、失われた者、神から離れたものを助ける仲保者が来ると理解した時に、ファリサイ派の律法主義や偽善ではなくキリストの信仰が成り立ちます。もとファリサイ派であったパウロはそれを経験しました。

イエス様は、神からもっとも遠く悪魔の支配に置かれた我々を、再び神のものとしてくださるために十字架の痛みを負い、復活された尊い羊飼いです。教会ではこの羊飼いを神の子として讃美します。罪からの救いはここにしかないからです。罪が解決したら、救いの喜びに入れられていきます。そして、やがて自分も、百分の一の羊を探し求める人となり、羊飼いとなり、仲保者とされていくのです。教会はアパルトヘイトを除き、この大きな使命を実行する喜びと責任を、現代でも託されています。


説教:中川 俊介 牧師

2016年5月29日日曜日

~説教~「対人関係革命」


「対人関係革命」    

ルカ 6:27-36 2016.5.29



「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」この敵を愛する教えは、ある面では、革命的な教えです。根本的な大転換です。この革命思想は中国からやってきた政治思想ですが、皇帝が天の神の心を受けて善政を行わなければ、その政権は転覆されて新しくされなければならないという考えです。先日、教会では聖霊降臨祭を祝いましが、これは価値観の大転換であり、宗教上の大革命とも言えるでしょう。聖霊によって新しくされた弟子たちはその後数百年続いたキリスト教迫害にも耐えることができました。聖霊なくしては、敵を愛するどころか、友人や家族のちょっとした言葉でさえ赦せないことがあるかもしれません。

南アフリカの人種差別の歴史を見ますと、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」ということが現実の問題であったことが分かります。後に大統領になったネルソン・マンデラは反差別の運動のために27年間刑務所に入れられていましたが、その困難な体験を通して、彼は憎しみの連鎖を終わらせる働きをしました。これは一種の無血革命です。しかし、実際に敵対関係に置かれたときの、わたしたちの許容度は低いものです。ただ、こうした困難なことを通して、わたしたちが聖霊を求めるように神は導いておられるのです。

イエス様は、一般的な意味で敵を愛せとは書いてありません。ギリシア語原文では「あなたの」敵を愛しなさいとあります。それに、ギリシア語での「敵」(エクスロス)とは、あなたの心を騒がせる者の意味です。この「あなたの心を騒がせる者」は身近にいるのではないでしょうか。教会にもいるでしょう。この「心を騒がせる者」を愛しなさいとイエス様は命じられているのです。人間には対人関係に革命を起こすことはできません。ただ、聖霊の助けによって可能なのです。聖霊の働きの中にわたしたちは愛する者として新生し、生まれ変わるのです。

聖書では、神がこの愛を完成させるとあり、この言葉の語源はテロスであり、終末とか物事の完成を示す言葉です。DNAの先端がテロメアと呼ばれているのもこのためです。ここで分かるように、終末とは終わりではなく、完成の時なのです。ですから、聖霊降臨が起こったことは、弟子たちに終末の時のテロスが来たことであり、神の働きが完成したことなのです。この礼拝において、「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞き、それをわたしたちが心から信じるときに、それも完成であり、イエス様が説教されたように、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)ということが必ずおこるのです。



説教:中川 俊介 牧師

2015年11月22日日曜日

~説教~「戻ったらアカン」


「戻ったらアカン」        

マルコ 13:24-31 2015.11.22

 

ポイントオブノーリターン、つまり引き返すことのできない地点というものがあります。今から20年以上前の自分の話ですが、板橋教会で働いていたころ、夏の朝早くおきて、一番電車に乗って秩父の三峯神社側から雲取山に登りました。頂上まで着いた時には既に午後になっていて、このままでは秩父側に戻れないことが分かりました。ポイントオブノーリターンです。そこで奥多摩方面に下山することにしましたが。これが大変でした。なにしろ装備を整えないで急に出かけたので懐中電灯がなく、暗くなってくると山は実に真っ暗で道が見えませんでした。しかし、戻れません。前に行くしかないのです。奥多摩側の鴨沢のバス停について光を見たときは本当にホッとしました。

 聖書を見ますと、創世記にソドムとゴモラという邪悪な町が滅びと時のエピソードが書かれています。そこに住んでいたアブラハムの甥のロトは奥さんと一緒に逃げました。その時に神は、「命懸けで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)と命じました。まさに、ポイントオブノーリターンです。しかし、ロトの妻は後ろを振り向いたので、硫黄の火、つまり火砕流ですね、これを被って塩の柱になってしまいました。彼女の心が過ぎ去ったものに向けられたからです。


今日は、教会暦では一年の最後の日です。過ぎ去った一年を振り返って反省するのも良いでしょう。しかし、「後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」と聖書は教えます。反省してもいいが、悔やむのは、神の御心に反して、ああでなければよかった、という恨み言になりかねません。最後の日と言えば、マルコ13章は小さな黙示録とも呼ばれ、厳しい裁きの時の到来を予告しています。それは旧約聖書のダニエル書7章からの引用です。ダニエル自身も、7章15節にも28節で「わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と語っています。しかし、ルターはこう言っています。「あなたがたは喜びをもって、最後の日を待つことができる。そして、裁きを恐れることはない。なぜなら、神はあなたがたを選んでくださったからだ。」彼は罪多き過去という後ろではなく、前を見ていたのです。

わたしたちも、後ろを見ないで前を見て最後の日、あるいは自分の死を迎えることが出来るでしょうか。イエス様は天体に異変が起こり、星も落ちてしまうことを預言しました。それは、人間が頼りにしている基盤が揺り動かされ消え去るという意味でしょう。ロトの事件は3千年以上前の出来事でしたが、御嶽山の噴火は去年の9月27日でした。山小屋の床下にある倉庫に入って助かった人の手記をみると、そのものすごさがわかります。夜でもない全くの暗黒に包まれ、熱い硫黄ガスに囲まれたのです。外の人は噴石やガスで死にました。爆発から火砕流まで10数秒でしたが、この人はお昼を食べている時に偶然にこの倉庫の戸が開いているのを見て覚えていたから避難できたのです。

24節にある、太陽が暗くなり、星が落ちるということは、まさに地球規模での爆発の象徴です。実は、災害だけでなく人間が暗黒に包まれることは、神の救いの栄光が現れることでもあります。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(第二ペテロ3:8-13)と書いてある通りです。過ぎ去っていく古いものと、過ぎ去らない新しいもの。ですから信仰とは、振り返ることではなく、新しい天と新しい地に希望を持ち続けることです。信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)、と書いてあります。

それが御嶽山でであっても、太陽、月、そして星であっても、見えるものは、古いものであり暗黒になかに消え去るのです。イエス様は、消えゆく世界で、これから神が与える新しい世界を教えました。太陽、月、そして星が消えたとしてもイエス様の言葉、神の愛は決して消えないのです。消えゆく時代の流れの中で、冷静な目をもって、永遠のものを待ち望んでいきたいものです。

わたしたちがイエス様に信仰を持っている時に、そこには逃れの場所があります。御嶽山の山小屋の下の洞穴のような隠れ家です。そこには熱いガスも噴石も飛んでこない場所です。星が落ち、太陽が輝きを失う、過ぎ去る世の中で、守られるということが救いの完成です。この逃れの場所こそ神の愛だとパウロは教えています。愛の隠れ家。 
 
 今は不安定な時代です。政治にしても、世界情勢においても不安定です。一触即発。また、体調の不安定に悩む場合もあるでしょう。旧約聖書の、ダニエルの恐れと悩みは、わたしたちも共有する辛さであります。

しかし、その時こそ、神の愛という避難所に逃げるときです。後ろを振り返ってはいけません。悔やんではいけません。そういうことに時間を浪費していると滅びてしまうと警告されているのです。どんなに罪の雲が重くてもただ神の愛と赦しを信じるべきです。 
 
 聖書の終末についてのメッセージには、破壊だけではなく、悪が栄えるこの時代はいつか終わり、神の正しい支配が訪れるという意味があります。全てが終わることは苦しみも終わることです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現するのです。 
 
 外国の子守唄で「わたしの試練」all my trials lord という曲があります。それはキリスト教に根ざした、バハマ諸島の民謡で、ジョーンバエズが歌い、ひろく知られるようになりました。それはもう息を引き取ろうとしているお母さんが自分の子供たちに心配しないように告げる内容です。その歌詞が意味深いので紹介します。
 
 静かにしてね、小さな子供たちよ。あなたたちのお母さんは死ぬために生まれたのだよ。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。ヨルダン川は冷たく濁っている。それは確かに体を冷やすけれど、魂を冷やすことはできない。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。わたしの小さな本には3ページしかない。でも、全てのページに解放について書いてある。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。もしお金で生きることが買えるなら、お金持ちだけが生き、貧乏人は死ぬでしょう。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。天国には一本の木が茂っている。巡礼者はそれを命の木と呼んでいる。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。
 
 この歌が教えていることは何でしょうか。主イエス・キリストは既に試練を受けた方であり、わたしたちはイエス・キリストへの信仰によって、人生の試練のヨルダン川を無事に渡ることができ、永遠の命の木のもとに憩うことができるのです。

わたしたちも、これを信じ、前進しましょう。世の終わり、人生の終わりは、実は救いの完成の時です。ロトの妻のように振り向いたら失敗するのです。「見よ、わたしは選ばれた尊い要石をシオンに置く。これを信じるものは決して失望することはない。」(第一ペトロ2:6)わたしたちは試練によって清められるのです。振り向いたらいけない。歌に暗示されている、十字架で死ぬために生まれた方、主イエス・キリストだけを見つめて、待降節を迎えましょう。


説教:中川 俊介 牧師

2015年9月23日水曜日

~説教~「矛盾の上に咲く花」


「矛盾の上に咲く花」

マルコ827-38 2015.9.23

 

今日の題は、モンゴル800、モンパチという沖縄のグループの歌の題と同じです。その歌詞にこうあります。「矛盾の上に咲く花は根っこの奥から抜きましょう。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい種をまきましょう。そしたらどこの国も優しさで溢れ、戦争の二文字は消えていく。」矛盾とは、中国の韓非子(紀元前3世紀)の本にある、矛と盾を売る商人の話から来ています。どんなものも突き刺す矛と、どんな刃物も通さない盾を打っている商人に、客がその矛で盾を突いたらどうなるかと問いただし答えられなかったという話です。これは笑い話ですが、わたしたちの生活にも矛盾は多いものです。

今日の日課はマルコ福音書における転回点とも言われている部分です。ここを一つの折り返し地点として、後半の部分は苦難の十字架の話に移って行きます。だから、十字架の予告がでているわけです。

 イエス様の一行は、色々な村に行って、愛の神のことを伝えようとしました。人々は聖書を詳しく知りませんから、愛ではなく、神を裁きの神と思っていました。そうした伝道の旅の中で、イエス様は弟子に人々が自分のことを誰だと言っているかを尋ねました。そこからわかるのは、人々がイエス様を神からの預言者の復活の姿として理解していたことです。イエス様の伝道は、神の愛を伝えるというよりは、有名な預言者の生き返りという形で理解されていたのです。その後で、イエス様は、弟子たち自身の意見を聞きました。しかし、自分はどう思うかと問われて、答えてはいません。わたしたちも礼拝で、信仰告白がありますが、他の人に混じって言葉上となえる場合が多くあります。一人一人が自分の信仰観を神に告白することとしてとなえたいものですね。たとえば、使徒信条で「罪の赦し、体のよみがえり、限りなき命を信ず」ととなえるときに、それを心から唱えることです。本当にそうだと確信して言葉に出すと、信仰と実際の生活との矛盾はなくなり、恐れもなくなり、限りない勇気が溢れます。

さて、イエス様の問いかけに、答えたのはペトロだけでした。ペトロは、「あなたはメシアです」と答えました。正解です。ペトロはイエス様が、神のメシア、つまり救い主だと思っていたのです。しかし、そのあとでイエス様が語ったメシアの役割、十字架の苦難の話は、彼には信じられない話でした。しかし、それは聖書の教え、聖書の預言であって、イエス様が思いついたものではありません。一方、ペトロの考えは、聖書に基づいたものではなく、世間的に伝えられていた世直しの王様的な、救い主の考えでした。イエス様の考えは、正しいものが正しくない者のために苦しむという、神の愛の計画と矛盾していませんでした。ペトロの考えは、神の言葉と矛盾していました。そこで、弟子のリーダーであったペトロが、聖書ではなく世俗的な考えで、イエス様の発言を遮って反対しました。ペトロは聖書と食い違っている自分の矛盾には気が付かず、人間的な親切心からイエス様の将来を心配して注意したわけです。

この部分の、マタイ福音書の並行記事を見ますと、「主よ、とんでもないことです」とまで言ったと書いてあります。ここでイエス様はそれを強く批判しました。「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」これは本当に厳しい言葉のようです。しかし、直訳すると「サタンよ、わたしの前にでしゃばって出てきて邪魔をしてはいけない」となり、それほど否定的な表現ではありません。あなたが心配していることは、人間の心配であり、聖書を通して神が語っている事とは違うよという意味です。ここで思い起こすのはルターの経験です。若いころのルターは、自分で救いの道を切り開こうと切磋琢磨、苦行をしました。しかし、そうした人間的な努力が聖書の教えと違っているのを発見したので、本当に救われたのです。ルターが発見したのは、人は神の恵みによって聖書に導かれ、救い主を信じる信仰だけで救われるという事です。

 さて、イエス様が殺されたのは、宗教的指導者によるものでした。神を知っていると自慢していた者たちが、実は聖書の伝える神ではなく人間の習慣に従っていたわけです。ここに、例外なく、人間なら誰でも、誰でもが持つ矛盾が隠されています。わたしたちも例外ではありません。ここが肝心です。ですから、第一弟子のペトロも、「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」と教えられたわけです。この言葉は記憶に残った事でしょうね。そうした失敗を削除しないのが聖書の良さでしょう。

「あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」神の愛ではなく、人間関係の愛を考えているのがわたしたちです。人間の愛は条件的なもので、神の無条件の愛とはちがいます。パウロも初めはそうでしたが、復活したイエス様に出会ってから、無条件に罪を赦す愛の救い主がおられることがわかりました。そこで、パウロは有名な第一コリント書13章の愛の賛歌で「愛は自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と述べています。

ここで、自分の利益を求めないとは、自分の事柄を第一にしないことです。誰でも自分が先ですが、聖書は逆です。神の愛が先です。いらだたず、というのは人から挑発されて怒りを爆発させないことです。恨みを抱かないとは、もともとは会計係が勘定する用語であり、悪いことばかりを数え上げないという意味です。聖書に従って、人間が神の愛を受けることは、人間的な矛盾がなくなることです。それが起こることは人生最大の奇跡の一つであると言えるでしょう。ペトロもパウロもルターもそうでした。

このことは、イエス様の言葉の「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということと同じです。つまり、神を愛し古い矛盾に満ちた自分に死ぬことです。十字架とは捨てられた姿です。メシアであるイエス様はわたしたちをありのままに愛し、その罪の身代わりとなって、絶望の世界に落ちてくださったのです。しかし、ペトロでさえ、この時はまだ、矛盾に満ちた信仰観でした。それを変えて下さったのは、イエス様の忍耐と愛の十字架でした。わたしたちの救いの原点は、わたしたちを愛する救い主が、わたしたちのために命を捧げるという愛を示してくださったことです。この愛の十字架のもとには、矛盾の上に咲く花は、咲くことができません。人間の作った偽物の愛の花は散ります。第一コリント2:2「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」讃美歌208番「十字架のかげに行きしときに、み神の愛を悟りえたり。」愛を知った。作曲したのはアメリカの女性作詞家、フランシス・クロスビーです。彼女は盲目の生涯を乗り越え生涯に9000曲の讃美歌を作詞しました。彼女の95年間の人生を支えたのも救い主との出会い、そして愛を知ったことです。ある牧師が、目に見えない彼女に、生まれ変わったら願いは何ですかと聞きました。彼女はまた目の見えないことです、天国で最初に見るのが愛する救い主だからですと答えたそうです。

「矛盾の上に咲く花は救い主イエス・キリストが根っこの奥から抜いてくださる。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい神の愛の種をまいてくださる。そしたら誰の心も優しさで溢れ、不幸や絶望の二文字は消えていく。」

わたしたちの人生はまだまだ矛盾に満ちています。でも、わたしたちを無条件で愛し、わたしたちの矛盾を十字架によって取り除き、神に近づけてくださる救い主がいます。その神の愛を悟るのが礼拝です。



説教:中川 俊介 牧師

2013年12月22日日曜日

~説教~「悲しみよサヨナラ」


「悲しみよサヨナラ」        

ルカ1:46-55  2013.12.22



クリスマス・コンサートのビラを配っていた時のことです。いちょうホールの近くを歩いていましたら、カトリック教会の教会堂がありました。夕方になったのでイルミネーションがついていました。これは幼稚園も兼ねた広い庭に生えている大きな木にかけてありました。不思議なのは、それが、一般にある富士山型をしていなかったことです。良く見るとそれは丸い植木の枝に沿って楕円形をしていました。つまり聖母マリアのメダイの形をしていたのです。確かにクリスマスのお祝いには、今日の福音書にあるマリアの賛歌に見られる、マリアさんの素晴らしい信仰が隠されています。

ルカ1:46にあるマリアの賛歌に、彼女が天使の予告を受けて、戸惑いながらも「お言葉通りこの身になりますように」と答える場面がでています。そこで彼女は生まれてくる子が神の子であることを信じたのです。ですから親族のエリサベトも、マリアに対して主の御言葉は実現すると信じた人は幸いですと言っています。マリアの賛歌の喜びは、彼女が主の御言葉は実現すると堅く信じたことに理由があると言ってよいでしょう。

実際には、わたしたちの毎日の生活には多くの悩みや悲しみが起りうるものです。こうした苦しみを、お釈迦様は4つの苦しみと悲しみに分類しました。第一に生きる悲しみ。生きていくことは実は大きな苦しみと心配、人間関係の難しさに満ちているというわけです。第2には病を持つ苦しみ。これは、病んだ人でないとわかりません。わたしも小学校一年生で肺結核にかかり苦しかった思い出があります。他人から見れば小さな事ですが、当事者には苦しいのです。例えば血液検査をするために採血するのですが、体が小さいので血管に注射器が刺さりません。何度も何度も刺されては失敗し刺されては失敗することが拷問のように感じたのです。もっと重い病気ならなおさらのことでしょう。また、第3に老いる悲しみがあります。木曜日に聖歌隊奉仕で行った三愛病院のキャロリングでは老いる意味を痛感しました。職員や婦長さんもトナカイや天使、サンタなどの扮装をして150床ある老人向け病院の患者さんたちを励ましてまわりました。わたしたちもせいいっぱい讃美歌を歌って雰囲気をもりあげました。ただ、ほとんどのお年寄りは反応できないほどに衰弱していました。なかには、讃美歌をきいて涙を流している患者さんがいました。楽しかった過去、家族と祝ったクリスマスを思いだして、孤独を感じたのかもしれません。最後に4番目の苦しみは、いよいよ死ぬ時にあります。生きる悲しみ、病気の悲しみをあまり経験したことがない人も、死ぬ悲しみと死別する悲しみを避けることはできません。人生は如何に多くの悲しみと苦しみからできているでしょうか。お釈迦様は、ですから、そういう人生の執着を捨てなさいと教えました。確かにそれも一つの解決法でしょう。

でも、クリスマスには、神さまがそうした苦しみ悲しみを解決してくださったことを、わたしたちは知らされます。もう、悲しまなくても良いのです。

マリアの賛歌を詳しく見てみましょう。困難な中でも、マリアさんのように喜びに満たされた人には、信仰の形があります。わたしたちはその信仰から学びたいものです。このマリアの賛歌には二つの態度の比較があることがわかります。一つのグループは、身分の低い者、はしめ、飢えた者、主を畏れる者などの群れです。それは自分の力に頼りたくても頼れない者たちです。マリアさんは自分をその中の一人として自覚しています。はしためとはギリシア語ドウーロスの女性形であって、奴隷の女という意味です。自分の力ではなにもできない奴隷女です。もう一方で、自信に満ちた人々のグループがあります。思いあがる者、権力ある者、富める者などの人々です。主の喜びはこの人たちには及びません。わたしたちや、周囲の人々が人生を喜べないときに、もしかしたら、このグループに属しているのかもしれません。しかし、主を畏れる者にはわかるでしょう。弱さの意味、自分では何もできない意味を知っているからです。そして、小さな事かもしれませんが痛みのない生活、自由に体を動かせる生活を喜び感謝することができます。さらにすごいのは、マリアの賛歌の喜びは、マリアが主の御言葉は実現すると信じたことによるわけですから、まだ問題が解決してはいないのに、すでにすべて解決したかのようにマリアは賛美したのです。この姿勢から学ぶことは多いでしょう。

後に、イエス様が成長し伝道に出た際にも同じように教えました。「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時あなたがたは幸いである。喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22以下)神の世界は喜びを先取りした世界です。イエス様も母親のマリアと同じように僕、つまり奴隷の低い身分に自分をおきました。これは聖書の他の箇所にも証しされています。パウロは書いています、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になりました。」(フィリピ2:6)つまり、クリスマスのお祝いとは、神の御言葉は必ず実現すると信じた母マリアが、神の子イエス・キリストという神の奴隷を生んだことです。低き姿に限りない賛美と喜びが生まれました。そして、生きることは最早、生病老死の苦しみではなく、生かされ、神に支えられている喜びに変ります。病気も同じです。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)病気が治るだけではないのです。エゲイローつまり死の眠りから覚ましてくださるのです。そして、最大の難関である老いる事と死さえも克服されます。「死は勝利に飲み込まれた。死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる。神に感謝しよう。」(第一コリント15:53以下)イエス様の十字架と復活によって、お釈迦さまですら諦めるしかないと言った死が滅ぼされたのです。使徒書の日課にも「その誉は人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と書いてあります。その反面、どうしても喜べない人々もいるでしょう。マリアの賛歌に出て来る第2のグループの人々です。思いあがるもの、権力ある者、富める者などです。主の喜びはこの人たちには及びません。その結果「悪意に満ち、妬み、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口をいい、人をそしり、人を侮り、高慢になってしまう。」(ローマ1:29以下)それらの人々に喜びと神への感謝はあるでしょうか。ないでしょう。神への感謝と賛美がでる時には人間はイエス様と同じように神の小さな僕だからです。ただ心の頑固さは誰にでもあるのであって、試練を通して神はどんな人も謙虚にしてくださるのです。これは人間の姿勢の問題ではなく神の救済の計画と聖霊によるのです。

最初にクリスマス・イルミネーションがメダイの形をしていたとのべました。八王子ルーテル教会のイルミネーションの中心は十字架です。クリスマスは尊い神の子キリストが十字架の犠牲となって死ぬために生まれてくださったので、喜びと悲しみは共にあります。愛と義の共時性を象徴しています。しかし、この悲しみはわたしたちの、生きる悲しみ、病の悲しみ、老いる悲しみ、死ぬ悲しみを背負ってくれた十字架の悲しみでした。それこそが、旧約聖書の日課にあるハンナの祈りにでてくる「主は命を絶ち、また命を与える」(サムエル上2:6)という意味です。カトリック教会には、ピエタ像があります。ピエタは慈悲と言う意味ですが、それは、十字架から降ろされたイエス様の遺体を腕に抱く聖母マリアの姿であり、ミケランジェロの作品が傑作とされています。それは心を打ちます。なぜなら、マリアのおだやかな表情は賛歌にある「そのみ名は尊く、その憐みは世々に限りない」という言葉が聞こえるかのような、悲しみをたたえてはいるが神の業の完成を受け入れた聖なる姿をあらわしているからです。イエス様は長い歴史のなかで待ち望まれた救い主として、馬小屋に生まれ、貧しき姿を貫き、十字架の死という悲しみをとおして、痛みと屈辱をとおして、全ての悲しむ者の悲しみを喜びに変えてくださいました。これがわたしたちの信じるゆるぎない福音です。このクリスマスのよき知らせを信じ続けてまいりましょう。悲しみよサヨナラ。

説教:中川 俊介 牧師

2012年3月11日日曜日

~説教~「大掃除してますか」


「大掃除してますか」        

ヨハネ 2:13-22 2012.3.11


今日は震災からちょうど1年にあたります。9月6日の広島、9日の長崎の原爆と同じように、3月11日は日本国民にとって忘れられない日になりました。今でも避難者は34万人あるそうです。先日、わたしの母の友人の家で火事がありました。家人は一階にいて、二階から出火して上が全焼してしまったそうです。原因はコンセントだったそうです。コンセントのまわりに細かい綿ほこりが付着していて発火したそうです。掃除しておいたら防げた家事でした。震災も自然現象であり避けることはできませんが、家財全部を捨てて、直ぐに逃げた人の多くは助かっています。旧約聖書エゼキエル書3章16節以下には、警告の大切さを説いています。「人の子よ、あなたを家の見張りとする。わたしに代わって警告しなければならない。人が悪の道を離れて命を得るように諭さなければならない。」このあなたは、誰のことをのべているのでしょうか。単に、被害の被災者だけでしょうか。

旧約聖書の日課は、有名なモーセの十戒ですが、そこの後の部分には、「神が来られたのは、試すためであり、神への畏れをおくためである」聖書の思想は一貫しています。申命記5:33「あなたは主が命じた道をひたすら歩みなさい。そうすればあなたは命と幸いを得る。」神が望んでいることは、わたしたちを災いから救い、命と幸いをあたえることだと、わたしは確信しています。使徒書の日課であるローマ書にも「信仰は聞くことによって始まる」とあります。命の道、生きる道は、御言葉を聞くことから始まるわけです。

では、福音書をみてみましょう。ヨハネ福音書2:13以下です。過ぎ越しというのは、古代イスラエルの時代にエジプトで奴隷化されたユダヤ人が神の特別な助けを得て、エジプトを脱出して逃げ、自由を得た故事を祝うお祭りです。その時からすでに3千2百年以上経過しています。ユダヤ人はこの出来事を毎年お祝いしていました。それが、ご存知のようにキリスト教の復活祭の起源となったものです。古代イスラエルでは、政治的奴隷状態からの解放をいわったのですが、イエス様の十字架のあとの復活を祝う復活祭は人間の霊的解放を祝うものです。

イエス様の思想は、旧約時代の聖書の思想と全く同じであり、人類に命と幸いをあたえることでした。そのためには、「命と幸い」以外のものを取り除かなければなりません。病気の場合も同じです。悪性の腫瘍が見つかったら、外科医はそれを手術して取り除かなかれば、患者は生きることができません。神は、人間に痛みを与えることがあるかもしれません。でも、それはわたしたちが生きるためではないでしょうか。神はイエス様に十字架という苦しみをあたえました。それは、しかし、生きるため、永遠の命を与えるためでした。それは第一ヨハネ5:13にあるように「神の子イエスを信じる者に、永遠の命を得ていることを悟らせるためです。」生きるためには、命に反するものが取り除かれる必要があります。

イエス様は、神殿から羊や牛、鳩など、供え物の為に売られていた商品を追い出しました。神殿が神の場所であり、命を与える場所であることが忘れられ、誰がどんなに高価な供え物をしたとか、どんなに立派だとかに意識が迷っていたからです。旧約聖書にも本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)と書いてあります。イエス様が神殿の境内の売店や両替に対して否定的だったのは、彼らの思いが利益や外観や、人間の敬虔さばかりを追求していて、神への愛が欠けていたからでしょう。現代でも同じです。礼拝において神への愛、心からの感謝、これがもっとも大きい供え物です。これ以外にはない。それが、命と幸いのみちであって、その他の不必要なもの、悪性腫瘍のように害悪を及ぼすものは、神さまによって取り除いていただかなくてはなりません。

イエス様の改革は神殿の供え物だけではありませんでした。神殿そのものが壊れてなくなるもの、つまり、神のものではなく、人の手で作ったものに過ぎないことを明らかにしたのです。しかし、当時の最高の宗教権威ですらこのことが理解できず、「神殿建築には46年もかかったのになんで3日で立て直すことができるのか」と質問したのです。もともと、神殿というものはいすらえるにはなく、幕屋と呼ばれるテントでした。それが、ソロモン王のときに第一神殿が建設されたのですが実際に準備したのは、ダビデ王でした。当時の様子は、旧約聖書歴代誌上29:1にダビデの言葉として「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」と書いてあります。そして、ダビデは自分個人が財産を金3千キカル寄贈した、家来たちよ進んで神のために寄贈するものはいないか、そう訴えたのです。すると、部族長や、長官や、軍の隊長などが次々に寄贈し、その総額はダビデ王の額を上回り、なんと金5千キカルに達したと書かれています。一キカルは34.2キロですから、これは171000キロ、171トンに及ぶ膨大な額であったのです。現代の金額にすると、8千億円です。ダビデ王の分を加えると1兆3千億円でした。そのほかに、宝石、銀、当時は貴重だった鉄も3千トン寄付されていますので、おそらく何兆円にも及ぶ神殿工事だったことがわかります。それは山を半分削って、縦500メートル、横250メートルに及高さ30メートルくらいの平らな基礎を作りその上に巨大な神殿を建てたのです。ですから、イエス様が神殿を三日で立て直すと言った時に誰もそれを信じなかったでしょう。ですが、本当はイエス様が言っているのは、神殿を建てたときのダビデ王の主旨のことです。「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」、つまり神への限りない愛の献身なのです。そのためには、他の不純物は一切不必要です。牛もいらない。鳩もいらない。金もいらない。本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)

ここにしか、本当の命と平和、命と幸いはない。聖書は警告しています。あなたは生きなければいけない。あなたの人生は幸いなものでなければいけない。だから、発火しやすい埃のような不必要なものをイエス様に取り除いていただく必要がある。「キリストは教会を清めて聖なるものとしてくださる」(エフェソ5:26)と約束されています。十字架の清めを信じ、わたしたちも命と幸いに既に入れられていることを感謝しましょう。「神が清くしたものを清くないと言ってはならない」(使徒11:9)とあります。それがわたしたちの確信でなければいけない。イエス様はわたしたちの心の中の神殿も既に、信仰によって清めてくださっているからです。確かに、震災、病気、困難悩み、そして十字架は耐え難い大きな試練です。しかし、それは同時に、わたしたちの雑多な心が清められピュアな神への愛に励まされる救いの時でもあるのです。自分の人生は自分のためにあるのではなく神の為、つまり愛するため、命を育むため、光を闇に輝かせるためにあることを覚えましょう。


説教:中川 俊介 牧師