「大の字に寝て見たりけり雲の峰」
マルコ 7:1-15 2018.9.2
小林一茶の俳句です。大の字になって夏の終わりの空を見上げれば、大きな入道雲、その偉大さに自分がいかに小さなことに悩んでいたかを知らされるのです。これは一茶が55歳の時の句です。今なら平均寿命を超えた年です。一茶はその年、長野から旅行し隅田川で花火を見たり、遠く千葉の海辺に友人を訪ねたりしました。広い世界を見たのでしょう。それに前の年の文化13年、1816年には、54歳になってせっかく授かった長男が生後間もなく亡くなってしまうという悲しい出来事もありました。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」その背景に思いをはせると感慨深いものがあります。
福音書の日課の最初の部分を見ますと、イエス様の弟子たちの何人かが、律法の儀式に従わず、不浄な手で食事をしていたようです。その時に、エルサレムから律法の専門家が来ていたものですから、それを問題視しました。ここでマルコ福音書は、清めについて説明をしています。これはユダヤ人にとっては当然のことでした。2千年前のユダヤ人にとって、食べ物にかかわる律法が厳しく守られていたことがわかります。タコ焼きはダメです。鱗のない海産物は禁止です。ひずめが割れていて、はんすうする動物だけ食べるのが許されていました。例えば豚はひずめが割れているけど反芻しないので穢れた動物でした。また、手を洗うことは、律法に従う社会的な決まりでした。ですから、エルサレムからきた律法の専門家には、イエス様が弟子たちに律法の決まりを指導していないと感じられたのです。聖書では、このことを「昔から受け継いで固く守っていること」と書いています。聖書の教えにはなかったのです。この書き方に意味が込められているのは、愛の神が教えることではないのだということです。人間社会の決まりです。それを守らない者は排除されたり、悪く言われたのです。つまり、この人間規則とは、人と人、人と神の間に壁をつくる人間の伝統だったのです。
現代社会で、壁をつくる名人はアメリカのトランプ大統領です。第一はメキシコとの壁。3000キロの国境にフェンスはあるがこれを10メートル近い壁にする案。またほかにも22兆円の対中関税という壁。移民の強制退去法などの法律の壁。昔のユダヤ人も同じでした。ユダヤ人は勿論、規則優先でした。それを、マルコ福音書の記者は、「昔から受け継いで固く守っていること」と表現しているのです。
エルサレムから来た律法の専門家たちは、イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と批判しています。実際に泥で汚れたわけではなく、人間が決めた清めの儀式をしてないだけです。ここではっきりしているのは、彼らの考えは「人の言い伝え」であって、聖書には手洗いの儀式を教える神の定めではないことです。どんな社会にも不合理な「人の言い伝え」があるのではないでしょうか。これに反すると処罰されます。イエス様が後で処刑されたのは、人間の定めた儀式や法律に反していると見られたからです。しかし、マタイ23:4にあるように、律法は当時多くの人にとって「背負いきれない重荷」になっていました。例えば、好きな人がいても、相手が異邦人だったり、宗教が違ったり、罪人と呼ばれる人々だったら、結婚は無理だったことでしょう。日本でも士農工商、穢多非人、という階級制度の壁がありました。穢れというのは殺生を禁じた仏教の考えに違反する職業を排除しているのです。例えば、革職人です。
さて聖書で、律法に違反しているという批判を受けたときのイエス様の答えはどうだったでしょうか。イエス様は、「人の言い伝え」ではなく聖書から引用して答えました。聖書です。聖書を読んでも、理解できないと壁ができます。ユダヤ人たちがそうでした。その聖書には、人間がおちいりやすい誤りが書かれていました。それは、人々が「人間の戒め」を大切な教えとして、人に重荷を負わせることでした。愛の神とは一切関係ない規則を最優先してしまうのです。パウロもガラテヤ書で、自分は「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラテヤ書1:14)と述べているくらいです。その結果、パウロは若いころ冷酷な迫害者になっていました。
そこでイエス様は決定的な言葉を批判者に返しました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」これはイエス様がイザヤ書を深く理解していたことを示します。では、イエス様の言葉の、もともとの原典であるギリシア語ではどうでしょうか。そこには「アフェンテス テーン
エントレーン トー テオー クラテイテ テーン パラドシン トーン アンスローポン」となっています。パラドシンの逆はパラドックスで、受け入れられないという意味です。「神の戒めを置き去りにして、人間が伝承し、受け入れてきたものが支配するに任せている」という意味です。ギリシア語は意味が深いと思います。似てるけど違う。日本語訳では、人々が神の定めを捨てたり、人間の定めを守ったりしていると理解できます。人間主体で書かれている。こうした人間中心性が、実は、人間をさばき、争い、自分を裁き、苦しめるのです。ところが、ギリシア語訳では、後半が違う。神と離れた勢力、つまり、サタンの支配にすべてを委ねている、サタンに服従しているのが問題なのです。
これが苦悩の原因です。イエス様はそれを人間の中から悪い思いが出て来ると教えました。これが人間の壁の原因です。この原因を見ない限り悩みや争いはきえません。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」一茶は、高齢になってやっと願いが叶って生まれた長男が死んでしまったり、願うようには人生が運ばないな、と沈んでいたでしょう。人間界の下ばかり見ていたでしょう。ところが広い草原に大の字になって空を見上げたら。青い空と大きな白い雲が、自分にとっての大きな悲しみを小さなものに感じさせてくれたのです。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」その問題は、2千年前の問題ではない。小林一茶の問題ではない。実は、わたしたち自身の問題でもあるのです。自分を愛すること、隣人を愛すること、神を愛すること、だけが大切です。しかし、その前に、まず神の愛を知るからできるのです。神は一人子をお与えになったほどに、この世を愛された、一人子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」まさに、わたしたちに必要なのは、この神の愛を見上げることではないでしょうか。あまりにも地上に向きすぎてはいないでしょうか。あまりにもこうでなくてはならないという人間の掟に縛られて、自分を苦しめ、他者を苦しめてはいないでしょうか。人間中心性が、心の中に合って、実は、人間をさばき、争い、自分を裁き、苦しめるのです。「大の字に寝て見たりけり雲の峰」、これをわたしたちがキリスト教観点から詠んだらこうでしょう。「大の字に寝て見たりけり神の愛」「大の字に寝て見たりけり神の愛」これさえあれば、他の事はどうにかなるものです。すなわち神の愛の支配にお任せすることなのです。申命記にある、いつ呼んでも、近くにおられる神、この愛の神にお任せすることなのです。
ルターは言いました。人間には二種しかない。生まれつき遺伝的に、悪魔に支配されている人間か、神に支配されている人間のどちらかだ。礼拝できていることは、神の愛に包まれている事、「大の字に寝て見たりけり神の愛」を体験することなのです。
説教:中川 俊介
牧師