「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」
マルコ 7:24-30 2018.9.9
蝉は短くても3年長いものは17年地中にいて、ほんの数週間地上で鳴いて夏の終わりには死に絶えます。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」一茶はそのはかない命に自分の人生を重ねてみたのでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。長いようで、実は短い人生を生きているのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか。
しかし、長いようで短く、苦しみに満ちた暗黒の時間の旅の果てに必ず神は、悲しみを喜びに変えてくださいます。夏の終わりの蝉をみて感じるような人生の空しさを覚える時に、神はそのめぐみの姿を示してくださいます。40年の出エジプトの砂漠の旅がそうでした。
イエス様は、人生の暗い谷間をさまようような、蝉の暗い地中での生活のような、社会の底辺にいる人々に伝道していたようです。福音書では、汚れた霊に取りつかれた人、悪霊に取りつかれた人、病人、らい病人、中風で体が麻痺した人、手が動かない人、墓場を住まいとした人、12年間も婦人病で出血が止まらない人、耳も聞こえない人、目の見えない人、夫が死んで生活できなくなった女の人、姦通の罪を犯した女、収税人、罪人、犯罪者など、イエス様が助けた、暗闇の生活で苦しんでいた人々は数限りありません。
でもなぜ、イエス様は金メダルを勝ち取るような努力家、健全な魂の人、正統派ではなく、地中の蝉のようなはかない社会の底辺ともいえる人々と交わり、神の福音を伝えたのでしょうか。
聖書を見てみましょう。最初に、イザヤ書です。35章2節に、「人々は主の栄光と神の輝きを見る」と書いてあります。それは、頑張りなさい、という励ましではありません。努力しなさいでもない。神の力です。これはペトロが行っていることと同じで、「今しばらく試練に悩まなくてはならないが、その試練によって精錬され、金より尊いものとなる」(第一ペトロ1:7)人生の荒地、蝉の地中生活とは、逆説的に、そこに命を与えはばたかせる神の栄光を見る場と言えるでしょう。だからこそ、イエス様は底辺にある人々に福音を伝えたのです。その人たちが、逆説的に一番早く神の栄光を見るからです。これが福音です。
その福音のために、イエス様と弟子たちは故郷のナザレからは何日も歩かなければ辿りつけない地中海沿岸の港町、ティルスにまで来ていました。ティルスはイエス様の時代の何百年も前に栄えた大都市でした。この港町は有名なレバノン杉の輸出,貝からとる高価な紫染料の生産などが有名で、神殿や大邸宅などがあり、道路は石で舗装されていました。ティルスは最早ユダヤ人の領地ではありませんでしたが、当時のほとんどすべての大都市にはユダヤ人が散在していましたから、そうした人々に、イエス様は聖書を通して神の存在と神の栄光を伝えようとしたのです。
そこで出会った母親はユダヤ人ではなく、ギリシア系でした。そして、そのことはイエス様にとって彼女が異邦人だったということです。ですから、ここでは、最初の目的のユダヤ人のための神の栄光を示す奇跡ではなく、ユダヤ人には禁じられていた異邦人との接触をイエス様がどのように行ったかが出ているわけです。最初、女の願いに対してイエス様はなにも答えなかったと書かれています。そして、女があまりにも願うものですから、「子供たちのパンをとって子犬にあげてはならない」といいました。つまり、イエス様はユダヤ人のための伝道に来たので、パンは福音のことです。この女に聖霊に満たされた信仰心というものがなかったなら、そこで話は終わっていたでしょう。
ところが、この異邦人の母親は、イエス様という人が、異邦人の救い主でもあることを信じていました。だから「主よ」と言ったのです。おそらく、イエス様が、神の愛は平等であると教えておらえたことを伝え聞いていたのでしょう。実際にイエス様は、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と教えたのです。悪人をも愛してくださっている。それはどんな悪人でも、人間環境の産物であり、悪魔の支配下に置かれた犠牲者であることを神は知っているからでしょう。例えば、犯罪者の生い立ちを調べてみると、そこには、ネグレクト、家庭内暴力、いじめ、障害などの苦しい過去があることがわかっています。犯罪者は、犯罪や暴力の犠牲者でもあるのです。犯罪だけではありません、人間の悪い習慣というものも、遺伝的なもの、環境的なものが大きく影響しています。神はすべての人を愛しておられるのです。勿論、わたしたちも愛しておられる。しかし、これを知らない人々は多い。
さて、この女性は神の愛を信じ、子供が癒されるために、必死でイエス様に願いました。変えられないものを変えて欲しいと願ったのです。それも非常に謙虚な姿勢でした。だいたい、イエス様が語った「小犬」という表現は相手を人間と見ていない、軽蔑した言い方です。イエス様はユダヤ人でしたから、ユダヤ人が普通に考えていた異邦人観を述べたのにすぎません。まず、母親は、イエス様から、これはユダヤ人伝道であって異邦人は考えていないと言われ、「主よお言葉通りです」(口語訳)と答えました。新共同訳の「しかし」という否定語は原語にはなく「そして」になっています。まさに服従です。神様の命じられることに対する従順な気持ちです。彼女は怒らなかった。服従によって神の否定を肯定としたのです。それと反対に、神を脅かしている信者もいるとある牧師が語っています。自分の願いをかなえてくれないならば、もう教会に来るのはやめます。一応出席はするけど献金はしません。一応献金はするけど、自分のあまった金だけにします。そういう態度です。
イエス様の前にひれ伏した母親は、従順であり謙虚でした。そして、イエス様が子犬の喩えを語った時も、それを面と向かって否定しませんでした。ルターはこの話が好きだったそうです。信仰とは「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」のを見ることだからです。この母親はイエス様の愛を信じ、「パンくずでもいただけないでしょうか」と何度も迫りました。これはまさに、イエス様が教えた信仰の姿勢でした。イエス様の譬えで、ルカ11:5以下、真夜中の訪問者の例があります。客が長旅を終えて着いたのですが、家では食料を切らしています。空腹で寝かせるわけにはいきません。そこで隣の家に行って、どうか食べ物を貸してくださいと言います。答えは、「面倒をかけないでください。子供も寝ているので騒がせないでください。」ここで終わるでしょう。しかし、イエス様は教えました。続けなさい。食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。何度も繰り返されると、どうでしょうか。わかった、わかった、貸しましょう。いや、本当にあなたの熱心さに負けました。まさに、「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」ですから、わたしたちにできることは蝉のようにミンミン鳴き続けることではないでしょうか。神に求め続けることです。神は無視(虫)をも無視しません。求めよ、さらば与えられん。これが、イエス様の教えた信仰の中心です。それは、イエス様ご自身の生き方でありました。
わたしたちにもイエス様の前に跪き、謙虚に求め続ける信仰さえあれば十分です。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」蝉の地中での17年間のあとで神は栄光を示してくださいます。喜びを与えてくださいます。もしかしたら、夏の終わりに落ちても鳴くセミも、実は最後まで感謝の声を上げているのかもしれません。「否定的な状況の裏に神の絶対肯定が隠されている」からです。わたしたちも最後の最後まで謙虚に救いを求め続けましょう。
説教:中川 俊介
牧師