「暗闇から光へ」
ヨハネ9:13-25
旧約聖書では、光とは、幸福と救いを象徴するものです。新約聖書では、旧約と同じ考えがあると同時に、光を悪に対立する善として考える傾向があります。最近は計画停電というものがあって、懐中電灯の光やローソクの光りに頼っていると、何が明るくて何が暗いのかという目の前のことについては大変に敏感になっています。先日は成田空港に行ってきましたが、帰りの高速道路は真っ暗でした。わたしたちは自分にとって何が光であり、何が闇でしょうか。先週は5人の夫を持った女の人の個人的な苦しみに触れる聖書個所でした。今回は視覚障害を持った人の個人的な苦しみに触れる個所です。このなかでの、光と闇を考えてみましょう。
まず、第二ペトロ1:7以下に「信心には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい。そうすればわたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。しかし、これらを備えていない者は視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています」と書いてあります。視力は物理的な視力ではなく、霊的に物を見る目のことを示しているといえます。5人の夫がいたサマリアの女もイエス様に会うまで、信仰心はあったのでしょうが霊的な視点がほとんどありませんでした。この霊について聖書では、キリストによって命をもたらす法則であるとローマ8:2に書かれています。つまり、イエス様との真の出会いが霊的な出会いだと言えます。
さて、生まれつき目が見えず、道端に座って物乞いをしていた人が、イエス・キリストと霊的な出会いを体験しました。それまでは、何か悪いことが起こると、天罰だとか、本人の努力が足りなかったとか、本人の責任だとか、あるいは両親の過ちによる家庭環境の問題、などが説かれるのが普通でした。ところがイエスは、そうした責任追及、犯人探しの姿勢に対してはっきりノーと言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)と答えられるのです。つまり、人生最大のマイナス、最も苦しい事柄、誰でもさけたい屈辱、激しい痛み、最大の暗黒は神の栄光の業を表す過程だと宣言したわけです。そこには十字架の奥義が隠されていると言えます。
イエス様は、この人にシロアムの池で目を洗い、当時のユダヤ教の規定通りに祭司に報告して承認してもらうように勧めました。彼は、言われた通りにしました。彼は何も疑問に持たずにイエス様のお言葉に従いました。目は見えなくても、きっと、イエス様の言葉の中に溢れてくる愛を感じたのでしょう。
この劇的な視力回復という癒しの後で、ファリサイ派による、この元盲人の人への尋問が始まりました。ファリサイ派の人々は、まず、この出来事が、いかなる行為もしてはならないと定められている安息日に起こったことを問題にします。「目が見えるようになる」という喜ばしい出来事そのものを無視します。喜びではなく、物事が規則どおりになされたかどうかを厳しくチェックすことだけが大切なのです。安息日に禁止される労働の一つに「練り粉をこねる事」が含まれていました。イエス様が、その日が安息日であるにも関わらず、唾でこねた泥(練り粉をこねている)によって治療しているので、この癒しの業は律法違反を含んでいると考えられました。彼らにとって、この男が一生見えなくても、あるいは物乞いもできなくなって死んだとしてもかまわなかったのです。彼らの心は冷たくなり愛がなかったので、この小さな男は存在しないも同然でした。
ファリサイ人のように、すばらしいことが起きたのに喜べないというのは、どうしてでしょうか。妬みが考えられます。ファリサイ派は、自分たちにはすばらしい神の恵みを体験できずにいる。しかし自分たちが「罪人」として見下しているこの男が、神の業を経験した。そのことに対する妬みを持ったのです。この妬みについて、竹森満佐一先生は次のように解説しているそうです。妬みの原因は、「神から誉れを受けようとしないで、人から褒(ほ)めてもらおうとする思い」であると。ファリサイ派の問題点は妬みだけでなく、わたしたちの問題点でもあり、罪の根源です。人間に褒められたいいう人間中心主義とも言えます。褒められたいから盗んだり時には殺したり、傷つける。それは神ではなく人間に栄光を期待する態度ではないでしょうか。
さて、ファリサイ派の中の間に裂け目、対立、ジレンマがあったことがわかります。イエス様を否定する者と、神の働きを肯定する者が議論したのです。両者の意見が分かれたままなので、本人の意見が求められると、彼は「あの方は預言者だ」と証言しました。聖書は、この卑しめられ、不幸のどん底にあったような人が生まれ変わって、自分の言葉で神の業を証ししている事にスポットライトを当てています。受け身で被害者だった人間が恐れを持たない能動的な人に生まれ変わったのです。この元盲人の人が、目を開かれ、彼を取り巻く「悪」の現実を見る事になったのです。彼はイエス様と出会い、イエスによって霊的な目を開かれることによって、「悪」が「悪」であることが見えるようになったのです。イエス様による癒しは、隠されていた悪の姿を暴露したのです。
主イエス・キリストは、私たちが本当に見えるべき事を霊的に見えるようにして下さる方です。かつて目が見えなかったけれども、今は見える。これはイエス様の働きです。わたしたちの努力や知識にはよりません。ファリサイ派をみると如何に多くのことを知っていようとも、イエス様を知らないということがどんなに人間の心や考えを歪めてしまうか、どんなに欠如に満ちた人間にするかということを思わされるのです。イエス様を知っているか、知らないか、そのことでこの世が二分されてしまうということなのです。ですから闇とはファリサイ人たちです。闇とは愛のない姿、喜びのない人生です。闇とはこの世の知恵です。光とは救い主です。見えるとはイエス様を知っていることです。いや、イエス様に知られていることです。それを信じるならば、私たちは今までとは違う生き方をすることになります。それは今まで大切に持っていたものを失うという一面もあります。しかし、私たちがこの世で何かを失うとしても、イエス様は私たちを求めておられ、今も私たちを捉えて離さなず、安息日の祝福を与えて下さる方です。なぜなら、礼拝を通してイエス様はわたしたちに出会ってくださるからです。イエスさまにとっては、安息日は、極めて良い日、最高に祝福された日、喜び多い霊の日でした。この男の癒しはわたしたちの癒しでもあります。なぜなら日曜日はキリストによって命をもたらす法則による霊の日だからです。この日には、盲人がキリストの言葉に従ったように、わたしたちも思い煩いを主にゆだねて、主に従い主を礼拝しましょう。聴き従うところに主の祝福と癒しがあります。この日曜日の礼拝そのものに、主イエス・キリストとの出会いの光があり、闇は消え癒しが実現し、わたしたちもキリストの福音を告げるものとされます。
説教:中川 俊介 牧師