「悲しみよサヨナラ」
ルカ1:46-55 2013.12.22
クリスマス・コンサートのビラを配っていた時のことです。いちょうホールの近くを歩いていましたら、カトリック教会の教会堂がありました。夕方になったのでイルミネーションがついていました。これは幼稚園も兼ねた広い庭に生えている大きな木にかけてありました。不思議なのは、それが、一般にある富士山型をしていなかったことです。良く見るとそれは丸い植木の枝に沿って楕円形をしていました。つまり聖母マリアのメダイの形をしていたのです。確かにクリスマスのお祝いには、今日の福音書にあるマリアの賛歌に見られる、マリアさんの素晴らしい信仰が隠されています。
ルカ1:46にあるマリアの賛歌に、彼女が天使の予告を受けて、戸惑いながらも「お言葉通りこの身になりますように」と答える場面がでています。そこで彼女は生まれてくる子が神の子であることを信じたのです。ですから親族のエリサベトも、マリアに対して主の御言葉は実現すると信じた人は幸いですと言っています。マリアの賛歌の喜びは、彼女が主の御言葉は実現すると堅く信じたことに理由があると言ってよいでしょう。
実際には、わたしたちの毎日の生活には多くの悩みや悲しみが起りうるものです。こうした苦しみを、お釈迦様は4つの苦しみと悲しみに分類しました。第一に生きる悲しみ。生きていくことは実は大きな苦しみと心配、人間関係の難しさに満ちているというわけです。第2には病を持つ苦しみ。これは、病んだ人でないとわかりません。わたしも小学校一年生で肺結核にかかり苦しかった思い出があります。他人から見れば小さな事ですが、当事者には苦しいのです。例えば血液検査をするために採血するのですが、体が小さいので血管に注射器が刺さりません。何度も何度も刺されては失敗し刺されては失敗することが拷問のように感じたのです。もっと重い病気ならなおさらのことでしょう。また、第3に老いる悲しみがあります。木曜日に聖歌隊奉仕で行った三愛病院のキャロリングでは老いる意味を痛感しました。職員や婦長さんもトナカイや天使、サンタなどの扮装をして150床ある老人向け病院の患者さんたちを励ましてまわりました。わたしたちもせいいっぱい讃美歌を歌って雰囲気をもりあげました。ただ、ほとんどのお年寄りは反応できないほどに衰弱していました。なかには、讃美歌をきいて涙を流している患者さんがいました。楽しかった過去、家族と祝ったクリスマスを思いだして、孤独を感じたのかもしれません。最後に4番目の苦しみは、いよいよ死ぬ時にあります。生きる悲しみ、病気の悲しみをあまり経験したことがない人も、死ぬ悲しみと死別する悲しみを避けることはできません。人生は如何に多くの悲しみと苦しみからできているでしょうか。お釈迦様は、ですから、そういう人生の執着を捨てなさいと教えました。確かにそれも一つの解決法でしょう。
でも、クリスマスには、神さまがそうした苦しみ悲しみを解決してくださったことを、わたしたちは知らされます。もう、悲しまなくても良いのです。
マリアの賛歌を詳しく見てみましょう。困難な中でも、マリアさんのように喜びに満たされた人には、信仰の形があります。わたしたちはその信仰から学びたいものです。このマリアの賛歌には二つの態度の比較があることがわかります。一つのグループは、身分の低い者、はしめ、飢えた者、主を畏れる者などの群れです。それは自分の力に頼りたくても頼れない者たちです。マリアさんは自分をその中の一人として自覚しています。はしためとはギリシア語ドウーロスの女性形であって、奴隷の女という意味です。自分の力ではなにもできない奴隷女です。もう一方で、自信に満ちた人々のグループがあります。思いあがる者、権力ある者、富める者などの人々です。主の喜びはこの人たちには及びません。わたしたちや、周囲の人々が人生を喜べないときに、もしかしたら、このグループに属しているのかもしれません。しかし、主を畏れる者にはわかるでしょう。弱さの意味、自分では何もできない意味を知っているからです。そして、小さな事かもしれませんが痛みのない生活、自由に体を動かせる生活を喜び感謝することができます。さらにすごいのは、マリアの賛歌の喜びは、マリアが主の御言葉は実現すると信じたことによるわけですから、まだ問題が解決してはいないのに、すでにすべて解決したかのようにマリアは賛美したのです。この姿勢から学ぶことは多いでしょう。
後に、イエス様が成長し伝道に出た際にも同じように教えました。「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時あなたがたは幸いである。喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22以下)神の世界は喜びを先取りした世界です。イエス様も母親のマリアと同じように僕、つまり奴隷の低い身分に自分をおきました。これは聖書の他の箇所にも証しされています。パウロは書いています、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になりました。」(フィリピ2:6)つまり、クリスマスのお祝いとは、神の御言葉は必ず実現すると信じた母マリアが、神の子イエス・キリストという神の奴隷を生んだことです。低き姿に限りない賛美と喜びが生まれました。そして、生きることは最早、生病老死の苦しみではなく、生かされ、神に支えられている喜びに変ります。病気も同じです。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)病気が治るだけではないのです。エゲイローつまり死の眠りから覚ましてくださるのです。そして、最大の難関である老いる事と死さえも克服されます。「死は勝利に飲み込まれた。死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる。神に感謝しよう。」(第一コリント15:53以下)イエス様の十字架と復活によって、お釈迦さまですら諦めるしかないと言った死が滅ぼされたのです。使徒書の日課にも「その誉は人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と書いてあります。その反面、どうしても喜べない人々もいるでしょう。マリアの賛歌に出て来る第2のグループの人々です。思いあがるもの、権力ある者、富める者などです。主の喜びはこの人たちには及びません。その結果「悪意に満ち、妬み、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口をいい、人をそしり、人を侮り、高慢になってしまう。」(ローマ1:29以下)それらの人々に喜びと神への感謝はあるでしょうか。ないでしょう。神への感謝と賛美がでる時には人間はイエス様と同じように神の小さな僕だからです。ただ心の頑固さは誰にでもあるのであって、試練を通して神はどんな人も謙虚にしてくださるのです。これは人間の姿勢の問題ではなく神の救済の計画と聖霊によるのです。
最初にクリスマス・イルミネーションがメダイの形をしていたとのべました。八王子ルーテル教会のイルミネーションの中心は十字架です。クリスマスは尊い神の子キリストが十字架の犠牲となって死ぬために生まれてくださったので、喜びと悲しみは共にあります。愛と義の共時性を象徴しています。しかし、この悲しみはわたしたちの、生きる悲しみ、病の悲しみ、老いる悲しみ、死ぬ悲しみを背負ってくれた十字架の悲しみでした。それこそが、旧約聖書の日課にあるハンナの祈りにでてくる「主は命を絶ち、また命を与える」(サムエル上2:6)という意味です。カトリック教会には、ピエタ像があります。ピエタは慈悲と言う意味ですが、それは、十字架から降ろされたイエス様の遺体を腕に抱く聖母マリアの姿であり、ミケランジェロの作品が傑作とされています。それは心を打ちます。なぜなら、マリアのおだやかな表情は賛歌にある「そのみ名は尊く、その憐みは世々に限りない」という言葉が聞こえるかのような、悲しみをたたえてはいるが神の業の完成を受け入れた聖なる姿をあらわしているからです。イエス様は長い歴史のなかで待ち望まれた救い主として、馬小屋に生まれ、貧しき姿を貫き、十字架の死という悲しみをとおして、痛みと屈辱をとおして、全ての悲しむ者の悲しみを喜びに変えてくださいました。これがわたしたちの信じるゆるぎない福音です。このクリスマスのよき知らせを信じ続けてまいりましょう。悲しみよサヨナラ。
説教:中川 俊介 牧師