2015年11月22日日曜日

~説教~「戻ったらアカン」


「戻ったらアカン」        

マルコ 13:24-31 2015.11.22

 

ポイントオブノーリターン、つまり引き返すことのできない地点というものがあります。今から20年以上前の自分の話ですが、板橋教会で働いていたころ、夏の朝早くおきて、一番電車に乗って秩父の三峯神社側から雲取山に登りました。頂上まで着いた時には既に午後になっていて、このままでは秩父側に戻れないことが分かりました。ポイントオブノーリターンです。そこで奥多摩方面に下山することにしましたが。これが大変でした。なにしろ装備を整えないで急に出かけたので懐中電灯がなく、暗くなってくると山は実に真っ暗で道が見えませんでした。しかし、戻れません。前に行くしかないのです。奥多摩側の鴨沢のバス停について光を見たときは本当にホッとしました。

 聖書を見ますと、創世記にソドムとゴモラという邪悪な町が滅びと時のエピソードが書かれています。そこに住んでいたアブラハムの甥のロトは奥さんと一緒に逃げました。その時に神は、「命懸けで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)と命じました。まさに、ポイントオブノーリターンです。しかし、ロトの妻は後ろを振り向いたので、硫黄の火、つまり火砕流ですね、これを被って塩の柱になってしまいました。彼女の心が過ぎ去ったものに向けられたからです。


今日は、教会暦では一年の最後の日です。過ぎ去った一年を振り返って反省するのも良いでしょう。しかし、「後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」と聖書は教えます。反省してもいいが、悔やむのは、神の御心に反して、ああでなければよかった、という恨み言になりかねません。最後の日と言えば、マルコ13章は小さな黙示録とも呼ばれ、厳しい裁きの時の到来を予告しています。それは旧約聖書のダニエル書7章からの引用です。ダニエル自身も、7章15節にも28節で「わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と語っています。しかし、ルターはこう言っています。「あなたがたは喜びをもって、最後の日を待つことができる。そして、裁きを恐れることはない。なぜなら、神はあなたがたを選んでくださったからだ。」彼は罪多き過去という後ろではなく、前を見ていたのです。

わたしたちも、後ろを見ないで前を見て最後の日、あるいは自分の死を迎えることが出来るでしょうか。イエス様は天体に異変が起こり、星も落ちてしまうことを預言しました。それは、人間が頼りにしている基盤が揺り動かされ消え去るという意味でしょう。ロトの事件は3千年以上前の出来事でしたが、御嶽山の噴火は去年の9月27日でした。山小屋の床下にある倉庫に入って助かった人の手記をみると、そのものすごさがわかります。夜でもない全くの暗黒に包まれ、熱い硫黄ガスに囲まれたのです。外の人は噴石やガスで死にました。爆発から火砕流まで10数秒でしたが、この人はお昼を食べている時に偶然にこの倉庫の戸が開いているのを見て覚えていたから避難できたのです。

24節にある、太陽が暗くなり、星が落ちるということは、まさに地球規模での爆発の象徴です。実は、災害だけでなく人間が暗黒に包まれることは、神の救いの栄光が現れることでもあります。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(第二ペテロ3:8-13)と書いてある通りです。過ぎ去っていく古いものと、過ぎ去らない新しいもの。ですから信仰とは、振り返ることではなく、新しい天と新しい地に希望を持ち続けることです。信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)、と書いてあります。

それが御嶽山でであっても、太陽、月、そして星であっても、見えるものは、古いものであり暗黒になかに消え去るのです。イエス様は、消えゆく世界で、これから神が与える新しい世界を教えました。太陽、月、そして星が消えたとしてもイエス様の言葉、神の愛は決して消えないのです。消えゆく時代の流れの中で、冷静な目をもって、永遠のものを待ち望んでいきたいものです。

わたしたちがイエス様に信仰を持っている時に、そこには逃れの場所があります。御嶽山の山小屋の下の洞穴のような隠れ家です。そこには熱いガスも噴石も飛んでこない場所です。星が落ち、太陽が輝きを失う、過ぎ去る世の中で、守られるということが救いの完成です。この逃れの場所こそ神の愛だとパウロは教えています。愛の隠れ家。 
 
 今は不安定な時代です。政治にしても、世界情勢においても不安定です。一触即発。また、体調の不安定に悩む場合もあるでしょう。旧約聖書の、ダニエルの恐れと悩みは、わたしたちも共有する辛さであります。

しかし、その時こそ、神の愛という避難所に逃げるときです。後ろを振り返ってはいけません。悔やんではいけません。そういうことに時間を浪費していると滅びてしまうと警告されているのです。どんなに罪の雲が重くてもただ神の愛と赦しを信じるべきです。 
 
 聖書の終末についてのメッセージには、破壊だけではなく、悪が栄えるこの時代はいつか終わり、神の正しい支配が訪れるという意味があります。全てが終わることは苦しみも終わることです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現するのです。 
 
 外国の子守唄で「わたしの試練」all my trials lord という曲があります。それはキリスト教に根ざした、バハマ諸島の民謡で、ジョーンバエズが歌い、ひろく知られるようになりました。それはもう息を引き取ろうとしているお母さんが自分の子供たちに心配しないように告げる内容です。その歌詞が意味深いので紹介します。
 
 静かにしてね、小さな子供たちよ。あなたたちのお母さんは死ぬために生まれたのだよ。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。ヨルダン川は冷たく濁っている。それは確かに体を冷やすけれど、魂を冷やすことはできない。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。わたしの小さな本には3ページしかない。でも、全てのページに解放について書いてある。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。もしお金で生きることが買えるなら、お金持ちだけが生き、貧乏人は死ぬでしょう。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。天国には一本の木が茂っている。巡礼者はそれを命の木と呼んでいる。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。
 
 この歌が教えていることは何でしょうか。主イエス・キリストは既に試練を受けた方であり、わたしたちはイエス・キリストへの信仰によって、人生の試練のヨルダン川を無事に渡ることができ、永遠の命の木のもとに憩うことができるのです。

わたしたちも、これを信じ、前進しましょう。世の終わり、人生の終わりは、実は救いの完成の時です。ロトの妻のように振り向いたら失敗するのです。「見よ、わたしは選ばれた尊い要石をシオンに置く。これを信じるものは決して失望することはない。」(第一ペトロ2:6)わたしたちは試練によって清められるのです。振り向いたらいけない。歌に暗示されている、十字架で死ぬために生まれた方、主イエス・キリストだけを見つめて、待降節を迎えましょう。


説教:中川 俊介 牧師

2015年9月23日水曜日

~説教~「矛盾の上に咲く花」


「矛盾の上に咲く花」

マルコ827-38 2015.9.23

 

今日の題は、モンゴル800、モンパチという沖縄のグループの歌の題と同じです。その歌詞にこうあります。「矛盾の上に咲く花は根っこの奥から抜きましょう。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい種をまきましょう。そしたらどこの国も優しさで溢れ、戦争の二文字は消えていく。」矛盾とは、中国の韓非子(紀元前3世紀)の本にある、矛と盾を売る商人の話から来ています。どんなものも突き刺す矛と、どんな刃物も通さない盾を打っている商人に、客がその矛で盾を突いたらどうなるかと問いただし答えられなかったという話です。これは笑い話ですが、わたしたちの生活にも矛盾は多いものです。

今日の日課はマルコ福音書における転回点とも言われている部分です。ここを一つの折り返し地点として、後半の部分は苦難の十字架の話に移って行きます。だから、十字架の予告がでているわけです。

 イエス様の一行は、色々な村に行って、愛の神のことを伝えようとしました。人々は聖書を詳しく知りませんから、愛ではなく、神を裁きの神と思っていました。そうした伝道の旅の中で、イエス様は弟子に人々が自分のことを誰だと言っているかを尋ねました。そこからわかるのは、人々がイエス様を神からの預言者の復活の姿として理解していたことです。イエス様の伝道は、神の愛を伝えるというよりは、有名な預言者の生き返りという形で理解されていたのです。その後で、イエス様は、弟子たち自身の意見を聞きました。しかし、自分はどう思うかと問われて、答えてはいません。わたしたちも礼拝で、信仰告白がありますが、他の人に混じって言葉上となえる場合が多くあります。一人一人が自分の信仰観を神に告白することとしてとなえたいものですね。たとえば、使徒信条で「罪の赦し、体のよみがえり、限りなき命を信ず」ととなえるときに、それを心から唱えることです。本当にそうだと確信して言葉に出すと、信仰と実際の生活との矛盾はなくなり、恐れもなくなり、限りない勇気が溢れます。

さて、イエス様の問いかけに、答えたのはペトロだけでした。ペトロは、「あなたはメシアです」と答えました。正解です。ペトロはイエス様が、神のメシア、つまり救い主だと思っていたのです。しかし、そのあとでイエス様が語ったメシアの役割、十字架の苦難の話は、彼には信じられない話でした。しかし、それは聖書の教え、聖書の預言であって、イエス様が思いついたものではありません。一方、ペトロの考えは、聖書に基づいたものではなく、世間的に伝えられていた世直しの王様的な、救い主の考えでした。イエス様の考えは、正しいものが正しくない者のために苦しむという、神の愛の計画と矛盾していませんでした。ペトロの考えは、神の言葉と矛盾していました。そこで、弟子のリーダーであったペトロが、聖書ではなく世俗的な考えで、イエス様の発言を遮って反対しました。ペトロは聖書と食い違っている自分の矛盾には気が付かず、人間的な親切心からイエス様の将来を心配して注意したわけです。

この部分の、マタイ福音書の並行記事を見ますと、「主よ、とんでもないことです」とまで言ったと書いてあります。ここでイエス様はそれを強く批判しました。「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」これは本当に厳しい言葉のようです。しかし、直訳すると「サタンよ、わたしの前にでしゃばって出てきて邪魔をしてはいけない」となり、それほど否定的な表現ではありません。あなたが心配していることは、人間の心配であり、聖書を通して神が語っている事とは違うよという意味です。ここで思い起こすのはルターの経験です。若いころのルターは、自分で救いの道を切り開こうと切磋琢磨、苦行をしました。しかし、そうした人間的な努力が聖書の教えと違っているのを発見したので、本当に救われたのです。ルターが発見したのは、人は神の恵みによって聖書に導かれ、救い主を信じる信仰だけで救われるという事です。

 さて、イエス様が殺されたのは、宗教的指導者によるものでした。神を知っていると自慢していた者たちが、実は聖書の伝える神ではなく人間の習慣に従っていたわけです。ここに、例外なく、人間なら誰でも、誰でもが持つ矛盾が隠されています。わたしたちも例外ではありません。ここが肝心です。ですから、第一弟子のペトロも、「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」と教えられたわけです。この言葉は記憶に残った事でしょうね。そうした失敗を削除しないのが聖書の良さでしょう。

「あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」神の愛ではなく、人間関係の愛を考えているのがわたしたちです。人間の愛は条件的なもので、神の無条件の愛とはちがいます。パウロも初めはそうでしたが、復活したイエス様に出会ってから、無条件に罪を赦す愛の救い主がおられることがわかりました。そこで、パウロは有名な第一コリント書13章の愛の賛歌で「愛は自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と述べています。

ここで、自分の利益を求めないとは、自分の事柄を第一にしないことです。誰でも自分が先ですが、聖書は逆です。神の愛が先です。いらだたず、というのは人から挑発されて怒りを爆発させないことです。恨みを抱かないとは、もともとは会計係が勘定する用語であり、悪いことばかりを数え上げないという意味です。聖書に従って、人間が神の愛を受けることは、人間的な矛盾がなくなることです。それが起こることは人生最大の奇跡の一つであると言えるでしょう。ペトロもパウロもルターもそうでした。

このことは、イエス様の言葉の「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということと同じです。つまり、神を愛し古い矛盾に満ちた自分に死ぬことです。十字架とは捨てられた姿です。メシアであるイエス様はわたしたちをありのままに愛し、その罪の身代わりとなって、絶望の世界に落ちてくださったのです。しかし、ペトロでさえ、この時はまだ、矛盾に満ちた信仰観でした。それを変えて下さったのは、イエス様の忍耐と愛の十字架でした。わたしたちの救いの原点は、わたしたちを愛する救い主が、わたしたちのために命を捧げるという愛を示してくださったことです。この愛の十字架のもとには、矛盾の上に咲く花は、咲くことができません。人間の作った偽物の愛の花は散ります。第一コリント2:2「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」讃美歌208番「十字架のかげに行きしときに、み神の愛を悟りえたり。」愛を知った。作曲したのはアメリカの女性作詞家、フランシス・クロスビーです。彼女は盲目の生涯を乗り越え生涯に9000曲の讃美歌を作詞しました。彼女の95年間の人生を支えたのも救い主との出会い、そして愛を知ったことです。ある牧師が、目に見えない彼女に、生まれ変わったら願いは何ですかと聞きました。彼女はまた目の見えないことです、天国で最初に見るのが愛する救い主だからですと答えたそうです。

「矛盾の上に咲く花は救い主イエス・キリストが根っこの奥から抜いてくださる。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい神の愛の種をまいてくださる。そしたら誰の心も優しさで溢れ、不幸や絶望の二文字は消えていく。」

わたしたちの人生はまだまだ矛盾に満ちています。でも、わたしたちを無条件で愛し、わたしたちの矛盾を十字架によって取り除き、神に近づけてくださる救い主がいます。その神の愛を悟るのが礼拝です。



説教:中川 俊介 牧師