10月30日 宗教改革記念礼拝
2016年11月3日木曜日
2016年10月23日日曜日
11月3日 高尾山ハイキングのご案内
ルーテル教会内のイベントということで、イベントの予定表の中にはありませんが、教会学校と青年会の共催で高尾山ハイキングを実施予定です。概要は以下の通りです。
集 合 高尾山口駅大天狗前 10:00
コース 高尾山口駅から1号路で山頂を目指すグループとケーブルカー利用のあと山頂
を目指すグループに別れて登ります。上のケーブルの駅で再合流の予定です。
解 散 15:30ごろ高尾山口駅にての予定です。
持ち物 弁当 水分(最低1リットル) 履き慣れた靴 お菓子
ルーテル教会に集う方ならどなたでも参加出来ます。前日までに八王子教会までご連絡
ください。
集 合 高尾山口駅大天狗前 10:00
コース 高尾山口駅から1号路で山頂を目指すグループとケーブルカー利用のあと山頂
を目指すグループに別れて登ります。上のケーブルの駅で再合流の予定です。
解 散 15:30ごろ高尾山口駅にての予定です。
持ち物 弁当 水分(最低1リットル) 履き慣れた靴 お菓子
ルーテル教会に集う方ならどなたでも参加出来ます。前日までに八王子教会までご連絡
ください。
Labels:
内部イベント
Location:
日本, 〒193-0844 東京都八王子市高尾町
~説教~「後の者が先になる」
「後の者が先になる」
ルカ18:9-14 2016.10.23
ルカ18:9-14 2016.10.23
今日の旧約聖書の日課である申命記には出エジプトという民族的な大試練の時に、モーセが神から受けた約束が書かれています。そこに書いてあるのは、神を愛し、神に仕え、神の戒めを守ることです。神に関することは、モーセの十戒の第一の石板にあることです。そして第二の石板にあるこの世の掟の大切な点は、隣人を愛し、隣人を差別せず、隣人を大切にすることです。そのときには、殺人も、盗みも、いじめも生じないのです。ですから、イエス様はこれを神への愛、隣人への愛と二つにまとめたわけです。そして、ユダヤ人たちはこの偉大な教えを受け継いでいたのですが、先の者が後になるというイエス様の預言通り、非ユダヤ系の人々に福音が先に伝えられたのです。
日本のことわざにも「老いては子に従え」とあります。「後の者が先になる」わけです。ただこれは、仏教の教えだそうです。特に、女性が、幼い時には親に従い、結婚したら夫に従い、夫の死後は子に従うという、三従の教えから来ているそうです。でも、我々は一般的に、年取ったら成人した子供の意見を尊重するという形で考えています。その一例ですが、わたしの母が体力的な問題で本郷ルーテル教会に行けなくなったので、地元の日本基督教団和光教会に転会しようかどうか迷っていた時がありました。その時は、和光教会で教会堂建設があって、多額の献金を求められるかもしれないから年金生活の自分は不安だというのでした。お前の意見はどうかと聞かれたので、教会が必要としているときに貢献できることは光栄なので、金額の多少は気にせず、是非転会してその教会に貢献したらよいと思うと言いました。母はその意見に従いました。それから数十年後に、母は和光教会の記念誌に自分の経験を書いて、我が子の助言に従い、少しでも教会に貢献できた喜びを表現していました。これは「老いては子に従え」ということでした。
さて、聖書の例話では、二人が神殿で祈ったという場面設定です。最初の人は自分の正しさを強調するファリサイ派の一人でした。モーセの十戒などは勿論よく知っていた人でした。このタイプの人が教会にいたら、みんなから尊敬されるのではないかと思います。礼拝は休まない、態度も親切で丁寧である。奉仕にも熱心で、集まりには最初に出てくるわけです。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」のモデルになった、斎藤宗次郎というクリスチャンがいたわけですが、そのような人だったと思います。宮沢賢治は「そういうものにわたしはなりたい」という言葉で詩を結んでいます。しかし、イエスさまの話の中では、自分は正しい者だとうぬぼれている人々の実例として、このような人物が描かれています。彼はそばにいた徴税人を比較して、このような罪深い人間ではないことを心の中で感謝します。つまり、自分が先のものだと思ったのです。イエス様のほかの例話では、農場で朝早くから働いた農夫が先のものであり、後から終了直前に雇われて同じ賃金をもらった農夫を批判したという話があります。この場合も先の者が後になったのです。今日の、イエス様の例話では、ファリサイ派の人は、徴税人に対して「奪い取る者、不正な者」と非難さえしています。確かに、彼の目から見たら、このことは当然でしょう。税を取り立てるということは、時には、無慈悲なことです。税金が払えなければ、財産は差し押さえられ、家は抵当に入ります。それを行うものは人々から嫌われていたことでしょう。
自分が正しいかどうか。これは大きな問題です。わたしたちは自分自身をどう判断するでしょうか。自分は放蕩息子のような存在か、それとも勤勉な兄さんのような存在なのか。朝から働いている農夫なのか、最後に雇ってもらった農夫なのか。判断は難しいものです。ただ、イエス様の例話で分かることが一つあります。先のものだと自負している者の心には、「徴税人、つまり悪人に対する非難」が存在することです。これは、イエス様の例話に共通することです。つまり、人間というのは例外なく「自分は先の者」であると思い、ファリサイ派の人のようになっているのではないでしょうか。ノーベル文学賞に決まったアメリカの歌手ボブ・ディランが賞を全く無視しているので批判されています。ただ彼は、偉いとか偉くないとかが嫌いですから、自分たちが勝手に賞を決めておいて、頭を下げて感謝して受け取れというのが気に入らないのかもしれません。ちなみに、フランスの哲学者サルトルも受賞が決定しても、賞は受け取らなかったそうです。高いものを称賛することは、逆に劣った人をみて、軽蔑することに関連します。イエス様はこのようなカースト制のような社会構造、そして人間の差別化の意識に反対した最初の人だと思います。だから、「後の者が先になる」と教えたのです。そして、自分も後の者、最も軽蔑され、憎まれた罪人として十字架にかけられたのです。
さて、どうして、わたしたちはイエス様と違って自分の価値を、他人との比較においてしか見られないのでしょうか。わたしたちの文化全体もイエス様の時代のユダヤ人社会とおなじ差別化の社会なのです。ルールなどを背景にして、それに合わない人々を排除するのです。学校でいじめがおわらず、いじめで自殺した少女の写真が賞に選ばれても「祭りの趣旨にふさわしくない」と初めは拒否した行政があったりするのです。イエス様の例話では、弱くて自殺しか方法のない者は、まさに後の者なのです。
イエス様の例話の徴税人には悔い改めしかありません。彼の口癖は、主よ憐れみたまえです。彼は人に迷惑をかけ、人を苦しめ、神さまの戒めを大切にせず、好き勝手に生きていました。自分の行いを冷静に見てみると、もう神さまの前に、裁かれることしかやっていないのです。神殿では、下を向いて「わたしを憐れんで下さい」と、かろうじて呟いただけでした。いわば彼のツウィッター常用語は「わたしを憐れんで下さい」であり、礼拝のキリエ・エレイソンと同じです。ルーテル教会の礼拝にこの言葉が残されているのは、世界遺産のように大切な文化遺産だと考えてもよいでしょう。つまり、わたしたちの礼拝の原点は徴税人と同じだということです。神の前で何も誇るものがない者の集まりです。しかし、神は神の前で無価値であることを認める人を救ってくださいます。
イエス様の結論はこれです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここに救いがあります。弱いことが恵みであり福音なのです。誰も偉くなく神だけが礼拝される集まり、それが教会の本質です。どんな人でも気軽に来れる教会。遅刻してもいいし、用事があれば途中で抜けてもいい。奉仕に熱心な人も、奉仕できない人も互いに受け入れ合っている教会。問題があっても、それを批判せず自分と共通の問題として、受け入れ合い、赦し合っている教会。どんなに罪が重くても自分が神様に愛されているとハッキリわかる教会。「弱くてよかった、弱いことは恵みですね」と互いに言いあうことができる「後の者が先になる」教会。共に主よ憐みたまえと、キリエを唱え、共に聖書を学び、共に祈り、共に福音を伝えていく教会。そのような家庭。そのような社会。その恵みをイエス様は伝えたかったのでしょう。
説教:中川 俊介 牧師
2016年9月4日日曜日
~説教~「百分の一だって大切なんだ」
「百分の一だって大切なんだ」
ルカ15:1-10 2016.9.4
イエス様は多くの教えを例え話で語りました。それも、聴衆を意識してのことです。最近、都知事選がありましたが、落選した候補者の多くは、決まり文句をどの場所でも、どの年代の人にも語っていたそうです。イエス様は違いました。どのような人が聞いているかということを念頭において語ったのです。
では、今日の日課の聴衆とは誰でしょうか。聖書には、多くの徴税人や罪人が集まったと書かれています。徴税人は、支配国ローマの税金を取り立てる「裏切り者」でした。また「罪人」というのも安息日の律法などを守れない「律法違反者」のことでした。彼らは、社会の底辺の人たちでした。差別されていた人たちでした。それらの人々はイエス様の近くまで集まってきてイエス様の教えを聞こうとしていました。きっと、心に渇きを覚えていたのでしょう。
しかし、別の聴衆として、社会の上流にいる人々、つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、相手にも聞こえるように大きな声で不平を漏らしたのです。イエス様が罪人の側の人だったからです。彼らには、罪人に対するイエス様の愛は理解できなかったのです。そこで、イエス様に対する批判をはじめました。罪人の側に立つとは、当時の、「正しい」人々には考えられないことでした。アパルトヘイト、つまり分離政策だったのです。これはイエス様の時代に限りません。南アフリカも、アメリカもアパルトヘイト政策をとっていました。黒人と白人はバスに乗っても席は違うし、建物の中のトイレも別でした。現代では、アメリカの大統領候補のトランプ氏がアメリカとメキシコの国境に大きな城壁を作るべきだと発言していますが、これもアパルトヘイト政策に似ています。イエス様の時代の社会も同じようにアパルトヘイトでしたが、そこでは、「正しい人々」と「正しい人々」を分離していたわけです。
そこで、イエス様は例え話で教えました。羊はおよそ動物の中で一番無防備と思われます。小動物すら外敵から自分を守るための能力を持っています。前に話しましたが、水族館で見る弱い魚、鰯でさえ群れを成して自分たちの敵を威嚇します。ところが羊は、群れで威嚇することもできません。メーメー鳴くだけです。一列に進んでいくと、崖から一匹ずつ落ちてしまう愚かな動物です。
この譬えの強調点は、99対1ということです。99というのは、聴衆の中では、律法学者やファリサイ派の人々のような、自称「正しい人々」を示しています。そして、迷い出た1匹は、原語のギリシア語では、アポルオーと書いてあって、これは単に迷い出ただけではなく、社会から置き去りにされているとか、救われないで滅びる、あるいは派生語のアポルオンになると悪魔という意味です。また、孤立していたという事は、神との交わりを失ってさまよっていたことです。ですから、この迷った羊の例でイエス様は、徴税人や罪人を示したのは確かです。彼らは悪魔のように思われていたのです。そして、イエス様はこの羊には、見つかるまで探してくれる羊飼い、見つかったら背中に背負ってくれる羊飼い、家につれ帰ったら近所の人を集めて盛大な祝賀会を開いて喜んでくれる羊飼いがいることを示したのです。イエス様の伝道の基本点はまさに失われた魂、神の大切な宝を見つかるまで探すことでした。「人の子は失われたものを探して救うために来たのである」(ルカ19:10)
その後で、例え話の核心を語りました。つまり、悔い改める1人の罪人「正しくない人」に対して、悔い改める必要のない99人の「正しい人々」より多くの共同の喜びが天国であるというのです。それは、自分を正しいと主張していて、実はアパルトヘイトをやっていた人々への痛烈な皮肉だと考える学者がいます。確かに、聖書は一貫して「正しい人々」はいないと教えているわけです。
次の、なくなった銀貨についての話も同じです。ちなみに、ドラクメとはギリシア通貨の呼び方で、ローマ通貨のデナリオンと同じ価値だそうです。つまり、一日の労働賃金に匹敵するものです。1円や5円ではないので懸命に探すでしょう。そして見つかったら、近所の人を集めてお祝いがあるのです。共同の喜びです。この話の要点は、死んでいたようなもの、あるいは悪魔に取りつかれていた者が、救い主の助けで復活するという方向転換がきて、神の家に帰ってくるときに、喜びが満ちるということです。教会というのはまさに、この喜びの家なのでしょう。大人数が集まるから良いのではなく、たった1匹の少数でも、神が支え、運び、喜びをあふれさせる場所が教会だと思います。
わたしたちは、生まれつき罪がありますから、自分を「正しい人々」の一人と見やすいものです。「正しくない人々」の側に入りたくないわけです。しかし、イエス様は罪人の側の人だったのです。99匹の側では、イエス様とは無関係になってしまいます。そこで、自分が99匹の多数派に属するか、それとも悔い改めた1匹のほうに属するかは、その人の持つ喜びで計ることができます。律法学者やファリサイ派の人々は批判をしましたが、喜びを持っていませんでした。しかし、神が望むのは批判でなく愛と喜びなのです。
さらに、ここで大切なのは、1匹の羊が悔い改めたという事です。イエス様から見たら律法学者やファリサイ派の人々さえ、迷い出た羊です。ただ彼らは悔い改めていません。「悔い改め」とは「方向転換」のことです。神の愛と喜びから離れていたところから、もう一度神の喜びに戻ることです。ただ、果たして人間は自分で悔い改めできるのでしょうか? できません。悔い改めには仲介者、羊飼い、がどうしても必要です。今日の旧約聖書の日課でも、モーセが神様の怒りをなだめています。このモーセの姿は、イエス様の姿の予兆です。十字架上のイエス様は言いました、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)実は、例え話の中心は羊ではなく羊飼いです。使徒書の日課をみますとパウロの体験が書かれています。「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」、つまり羊飼いであることを悟ったのです。たった1人でも、失われた者、神から離れたものを助ける仲保者が来ると理解した時に、ファリサイ派の律法主義や偽善ではなくキリストの信仰が成り立ちます。もとファリサイ派であったパウロはそれを経験しました。
イエス様は、神からもっとも遠く悪魔の支配に置かれた我々を、再び神のものとしてくださるために十字架の痛みを負い、復活された尊い羊飼いです。教会ではこの羊飼いを神の子として讃美します。罪からの救いはここにしかないからです。罪が解決したら、救いの喜びに入れられていきます。そして、やがて自分も、百分の一の羊を探し求める人となり、羊飼いとなり、仲保者とされていくのです。教会はアパルトヘイトを除き、この大きな使命を実行する喜びと責任を、現代でも託されています。
説教:中川 俊介 牧師
2016年5月29日日曜日
~説教~「対人関係革命」
「対人関係革命」
ルカ 6:27-36 2016.5.29
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」この敵を愛する教えは、ある面では、革命的な教えです。根本的な大転換です。この革命思想は中国からやってきた政治思想ですが、皇帝が天の神の心を受けて善政を行わなければ、その政権は転覆されて新しくされなければならないという考えです。先日、教会では聖霊降臨祭を祝いましが、これは価値観の大転換であり、宗教上の大革命とも言えるでしょう。聖霊によって新しくされた弟子たちはその後数百年続いたキリスト教迫害にも耐えることができました。聖霊なくしては、敵を愛するどころか、友人や家族のちょっとした言葉でさえ赦せないことがあるかもしれません。
南アフリカの人種差別の歴史を見ますと、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」ということが現実の問題であったことが分かります。後に大統領になったネルソン・マンデラは反差別の運動のために27年間刑務所に入れられていましたが、その困難な体験を通して、彼は憎しみの連鎖を終わらせる働きをしました。これは一種の無血革命です。しかし、実際に敵対関係に置かれたときの、わたしたちの許容度は低いものです。ただ、こうした困難なことを通して、わたしたちが聖霊を求めるように神は導いておられるのです。
イエス様は、一般的な意味で敵を愛せとは書いてありません。ギリシア語原文では「あなたの」敵を愛しなさいとあります。それに、ギリシア語での「敵」(エクスロス)とは、あなたの心を騒がせる者の意味です。この「あなたの心を騒がせる者」は身近にいるのではないでしょうか。教会にもいるでしょう。この「心を騒がせる者」を愛しなさいとイエス様は命じられているのです。人間には対人関係に革命を起こすことはできません。ただ、聖霊の助けによって可能なのです。聖霊の働きの中にわたしたちは愛する者として新生し、生まれ変わるのです。
聖書では、神がこの愛を完成させるとあり、この言葉の語源はテロスであり、終末とか物事の完成を示す言葉です。DNAの先端がテロメアと呼ばれているのもこのためです。ここで分かるように、終末とは終わりではなく、完成の時なのです。ですから、聖霊降臨が起こったことは、弟子たちに終末の時のテロスが来たことであり、神の働きが完成したことなのです。この礼拝において、「汝の敵を愛せよ」という言葉を聞き、それをわたしたちが心から信じるときに、それも完成であり、イエス様が説教されたように、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)ということが必ずおこるのです。
説教:中川 俊介
牧師
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