2016年9月4日日曜日

~説教~「百分の一だって大切なんだ」


「百分の一だって大切なんだ」

ルカ15:1-10 2016.9.4



イエス様は多くの教えを例え話で語りました。それも、聴衆を意識してのことです。最近、都知事選がありましたが、落選した候補者の多くは、決まり文句をどの場所でも、どの年代の人にも語っていたそうです。イエス様は違いました。どのような人が聞いているかということを念頭において語ったのです。

では、今日の日課の聴衆とは誰でしょうか。聖書には、多くの徴税人や罪人が集まったと書かれています。徴税人は、支配国ローマの税金を取り立てる「裏切り者」でした。また「罪人」というのも安息日の律法などを守れない「律法違反者」のことでした。彼らは、社会の底辺の人たちでした。差別されていた人たちでした。それらの人々はイエス様の近くまで集まってきてイエス様の教えを聞こうとしていました。きっと、心に渇きを覚えていたのでしょう。

しかし、別の聴衆として、社会の上流にいる人々、つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、相手にも聞こえるように大きな声で不平を漏らしたのです。イエス様が罪人の側の人だったからです。彼らには、罪人に対するイエス様の愛は理解できなかったのです。そこで、イエス様に対する批判をはじめました。罪人の側に立つとは、当時の、「正しい」人々には考えられないことでした。アパルトヘイト、つまり分離政策だったのです。これはイエス様の時代に限りません。南アフリカも、アメリカもアパルトヘイト政策をとっていました。黒人と白人はバスに乗っても席は違うし、建物の中のトイレも別でした。現代では、アメリカの大統領候補のトランプ氏がアメリカとメキシコの国境に大きな城壁を作るべきだと発言していますが、これもアパルトヘイト政策に似ています。イエス様の時代の社会も同じようにアパルトヘイトでしたが、そこでは、「正しい人々」と「正しい人々」を分離していたわけです。

そこで、イエス様は例え話で教えました。羊はおよそ動物の中で一番無防備と思われます。小動物すら外敵から自分を守るための能力を持っています。前に話しましたが、水族館で見る弱い魚、鰯でさえ群れを成して自分たちの敵を威嚇します。ところが羊は、群れで威嚇することもできません。メーメー鳴くだけです。一列に進んでいくと、崖から一匹ずつ落ちてしまう愚かな動物です。

この譬えの強調点は、99対1ということです。99というのは、聴衆の中では、律法学者やファリサイ派の人々のような、自称「正しい人々」を示しています。そして、迷い出た1匹は、原語のギリシア語では、アポルオーと書いてあって、これは単に迷い出ただけではなく、社会から置き去りにされているとか、救われないで滅びる、あるいは派生語のアポルオンになると悪魔という意味です。また、孤立していたという事は、神との交わりを失ってさまよっていたことです。ですから、この迷った羊の例でイエス様は、徴税人や罪人を示したのは確かです。彼らは悪魔のように思われていたのです。そして、イエス様はこの羊には、見つかるまで探してくれる羊飼い、見つかったら背中に背負ってくれる羊飼い、家につれ帰ったら近所の人を集めて盛大な祝賀会を開いて喜んでくれる羊飼いがいることを示したのです。イエス様の伝道の基本点はまさに失われた魂、神の大切な宝を見つかるまで探すことでした。「人の子は失われたものを探して救うために来たのである」(ルカ19:10)

その後で、例え話の核心を語りました。つまり、悔い改める1人の罪人「正しくない人」に対して、悔い改める必要のない99人の「正しい人々」より多くの共同の喜びが天国であるというのです。それは、自分を正しいと主張していて、実はアパルトヘイトをやっていた人々への痛烈な皮肉だと考える学者がいます。確かに、聖書は一貫して「正しい人々」はいないと教えているわけです。

次の、なくなった銀貨についての話も同じです。ちなみに、ドラクメとはギリシア通貨の呼び方で、ローマ通貨のデナリオンと同じ価値だそうです。つまり、一日の労働賃金に匹敵するものです。1円や5円ではないので懸命に探すでしょう。そして見つかったら、近所の人を集めてお祝いがあるのです。共同の喜びです。この話の要点は、死んでいたようなもの、あるいは悪魔に取りつかれていた者が、救い主の助けで復活するという方向転換がきて、神の家に帰ってくるときに、喜びが満ちるということです。教会というのはまさに、この喜びの家なのでしょう。大人数が集まるから良いのではなく、たった1匹の少数でも、神が支え、運び、喜びをあふれさせる場所が教会だと思います。

わたしたちは、生まれつき罪がありますから、自分を「正しい人々」の一人と見やすいものです。「正しくない人々」の側に入りたくないわけです。しかし、イエス様は罪人の側の人だったのです。99匹の側では、イエス様とは無関係になってしまいます。そこで、自分が99匹の多数派に属するか、それとも悔い改めた1匹のほうに属するかは、その人の持つ喜びで計ることができます。律法学者やファリサイ派の人々は批判をしましたが、喜びを持っていませんでした。しかし、神が望むのは批判でなく愛と喜びなのです。

さらに、ここで大切なのは、1匹の羊が悔い改めたという事です。イエス様から見たら律法学者やファリサイ派の人々さえ、迷い出た羊です。ただ彼らは悔い改めていません。「悔い改め」とは「方向転換」のことです。神の愛と喜びから離れていたところから、もう一度神の喜びに戻ることです。ただ、果たして人間は自分で悔い改めできるのでしょうか? できません。悔い改めには仲介者、羊飼い、がどうしても必要です。今日の旧約聖書の日課でも、モーセが神様の怒りをなだめています。このモーセの姿は、イエス様の姿の予兆です。十字架上のイエス様は言いました、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)実は、例え話の中心は羊ではなく羊飼いです。使徒書の日課をみますとパウロの体験が書かれています。「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」、つまり羊飼いであることを悟ったのです。たった1人でも、失われた者、神から離れたものを助ける仲保者が来ると理解した時に、ファリサイ派の律法主義や偽善ではなくキリストの信仰が成り立ちます。もとファリサイ派であったパウロはそれを経験しました。

イエス様は、神からもっとも遠く悪魔の支配に置かれた我々を、再び神のものとしてくださるために十字架の痛みを負い、復活された尊い羊飼いです。教会ではこの羊飼いを神の子として讃美します。罪からの救いはここにしかないからです。罪が解決したら、救いの喜びに入れられていきます。そして、やがて自分も、百分の一の羊を探し求める人となり、羊飼いとなり、仲保者とされていくのです。教会はアパルトヘイトを除き、この大きな使命を実行する喜びと責任を、現代でも託されています。


説教:中川 俊介 牧師