2016年10月23日日曜日

11月3日 高尾山ハイキングのご案内

ルーテル教会内のイベントということで、イベントの予定表の中にはありませんが、教会学校と青年会の共催で高尾山ハイキングを実施予定です。概要は以下の通りです。

集    合  高尾山口駅大天狗前 10:00
コース  高尾山口駅から1号路で山頂を目指すグループとケーブルカー利用のあと山頂
     を目指すグループに別れて登ります。上のケーブルの駅で再合流の予定です。
解 散  15:30ごろ高尾山口駅にての予定です。
持ち物  弁当 水分(最低1リットル) 履き慣れた靴 お菓子

ルーテル教会に集う方ならどなたでも参加出来ます。前日までに八王子教会までご連絡
ください。

~説教~「後の者が先になる」

「後の者が先になる」

ルカ18:9-14 2016.10.23
  

今日の旧約聖書の日課である申命記には出エジプトという民族的な大試練の時に、モーセが神から受けた約束が書かれています。そこに書いてあるのは、神を愛し、神に仕え、神の戒めを守ることです。神に関することは、モーセの十戒の第一の石板にあることです。そして第二の石板にあるこの世の掟の大切な点は、隣人を愛し、隣人を差別せず、隣人を大切にすることです。そのときには、殺人も、盗みも、いじめも生じないのです。ですから、イエス様はこれを神への愛、隣人への愛と二つにまとめたわけです。そして、ユダヤ人たちはこの偉大な教えを受け継いでいたのですが、先の者が後になるというイエス様の預言通り、非ユダヤ系の人々に福音が先に伝えられたのです。

日本のことわざにも「老いては子に従え」とあります。「後の者が先になる」わけです。ただこれは、仏教の教えだそうです。特に、女性が、幼い時には親に従い、結婚したら夫に従い、夫の死後は子に従うという、三従の教えから来ているそうです。でも、我々は一般的に、年取ったら成人した子供の意見を尊重するという形で考えています。その一例ですが、わたしの母が体力的な問題で本郷ルーテル教会に行けなくなったので、地元の日本基督教団和光教会に転会しようかどうか迷っていた時がありました。その時は、和光教会で教会堂建設があって、多額の献金を求められるかもしれないから年金生活の自分は不安だというのでした。お前の意見はどうかと聞かれたので、教会が必要としているときに貢献できることは光栄なので、金額の多少は気にせず、是非転会してその教会に貢献したらよいと思うと言いました。母はその意見に従いました。それから数十年後に、母は和光教会の記念誌に自分の経験を書いて、我が子の助言に従い、少しでも教会に貢献できた喜びを表現していました。これは「老いては子に従え」ということでした。

さて、聖書の例話では、二人が神殿で祈ったという場面設定です。最初の人は自分の正しさを強調するファリサイ派の一人でした。モーセの十戒などは勿論よく知っていた人でした。このタイプの人が教会にいたら、みんなから尊敬されるのではないかと思います。礼拝は休まない、態度も親切で丁寧である。奉仕にも熱心で、集まりには最初に出てくるわけです。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」のモデルになった、斎藤宗次郎というクリスチャンがいたわけですが、そのような人だったと思います。宮沢賢治は「そういうものにわたしはなりたい」という言葉で詩を結んでいます。しかし、イエスさまの話の中では、自分は正しい者だとうぬぼれている人々の実例として、このような人物が描かれています。彼はそばにいた徴税人を比較して、このような罪深い人間ではないことを心の中で感謝します。つまり、自分が先のものだと思ったのです。イエス様のほかの例話では、農場で朝早くから働いた農夫が先のものであり、後から終了直前に雇われて同じ賃金をもらった農夫を批判したという話があります。この場合も先の者が後になったのです。今日の、イエス様の例話では、ファリサイ派の人は、徴税人に対して「奪い取る者、不正な者」と非難さえしています。確かに、彼の目から見たら、このことは当然でしょう。税を取り立てるということは、時には、無慈悲なことです。税金が払えなければ、財産は差し押さえられ、家は抵当に入ります。それを行うものは人々から嫌われていたことでしょう。

自分が正しいかどうか。これは大きな問題です。わたしたちは自分自身をどう判断するでしょうか。自分は放蕩息子のような存在か、それとも勤勉な兄さんのような存在なのか。朝から働いている農夫なのか、最後に雇ってもらった農夫なのか。判断は難しいものです。ただ、イエス様の例話で分かることが一つあります。先のものだと自負している者の心には、「徴税人、つまり悪人に対する非難」が存在することです。これは、イエス様の例話に共通することです。つまり、人間というのは例外なく「自分は先の者」であると思い、ファリサイ派の人のようになっているのではないでしょうか。ノーベル文学賞に決まったアメリカの歌手ボブ・ディランが賞を全く無視しているので批判されています。ただ彼は、偉いとか偉くないとかが嫌いですから、自分たちが勝手に賞を決めておいて、頭を下げて感謝して受け取れというのが気に入らないのかもしれません。ちなみに、フランスの哲学者サルトルも受賞が決定しても、賞は受け取らなかったそうです。高いものを称賛することは、逆に劣った人をみて、軽蔑することに関連します。イエス様はこのようなカースト制のような社会構造、そして人間の差別化の意識に反対した最初の人だと思います。だから、「後の者が先になる」と教えたのです。そして、自分も後の者、最も軽蔑され、憎まれた罪人として十字架にかけられたのです。

さて、どうして、わたしたちはイエス様と違って自分の価値を、他人との比較においてしか見られないのでしょうか。わたしたちの文化全体もイエス様の時代のユダヤ人社会とおなじ差別化の社会なのです。ルールなどを背景にして、それに合わない人々を排除するのです。学校でいじめがおわらず、いじめで自殺した少女の写真が賞に選ばれても「祭りの趣旨にふさわしくない」と初めは拒否した行政があったりするのです。イエス様の例話では、弱くて自殺しか方法のない者は、まさに後の者なのです。

イエス様の例話の徴税人には悔い改めしかありません。彼の口癖は、主よ憐れみたまえです。彼は人に迷惑をかけ、人を苦しめ、神さまの戒めを大切にせず、好き勝手に生きていました。自分の行いを冷静に見てみると、もう神さまの前に、裁かれることしかやっていないのです。神殿では、下を向いて「わたしを憐れんで下さい」と、かろうじて呟いただけでした。いわば彼のツウィッター常用語は「わたしを憐れんで下さい」であり、礼拝のキリエ・エレイソンと同じです。ルーテル教会の礼拝にこの言葉が残されているのは、世界遺産のように大切な文化遺産だと考えてもよいでしょう。つまり、わたしたちの礼拝の原点は徴税人と同じだということです。神の前で何も誇るものがない者の集まりです。しかし、神は神の前で無価値であることを認める人を救ってくださいます。
 
イエス様の結論はこれです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここに救いがあります。弱いことが恵みであり福音なのです。誰も偉くなく神だけが礼拝される集まり、それが教会の本質です。どんな人でも気軽に来れる教会。遅刻してもいいし、用事があれば途中で抜けてもいい。奉仕に熱心な人も、奉仕できない人も互いに受け入れ合っている教会。問題があっても、それを批判せず自分と共通の問題として、受け入れ合い、赦し合っている教会。どんなに罪が重くても自分が神様に愛されているとハッキリわかる教会。「弱くてよかった、弱いことは恵みですね」と互いに言いあうことができる「後の者が先になる」教会。共に主よ憐みたまえと、キリエを唱え、共に聖書を学び、共に祈り、共に福音を伝えていく教会。そのような家庭。そのような社会。その恵みをイエス様は伝えたかったのでしょう。



 説教:中川 俊介 牧師