2017年9月3日日曜日

~説教~「亡霊と神との違い」



「亡霊と神との違い」        

マタイ14:22-33 2017.9.3

 

今日は亡霊について考えてみましょう。前にもお話ししましたが、イラクに「バクダッドの死神」というお話があります。ある商人が召使を市場に買い物にいかせました。しばらくすると召使が真っ青な顔をして帰ってきました。そして、主人に馬を貸してほしいというのです。どうしたのだと尋ねると、市場で死神を見かけたが、その死神が自分を驚かすようなしぐさをしたのだと言います。そして、自分の故郷のサマラまで行けばその手を逃れられるだろうと言ったのでした。主人が馬を貸すと召使はサマラに逃げました。その後、商人が市場に行くと、死神を見かけたので、「何故、召使をおびやかすようなしぐさをしたのだ」と問いただしました。すると、死神は、「別に驚かせたのではない。実は今晩サマラで彼に会うことになっていたのに、バクダッドで出くわしたから、こちらも驚いたのだ。」察しの良い人はすぐわかりますね。つまり、この話の要点は、召使が逃げたことによって予定通りサマラで死ぬことになってしまった訳です。死の霊からは、逃れられないということを教えています。

今日の福音書の日課では、イエス様が弟子たちを船に乗せ対岸に送り出したとあります。そのあとガリラヤ湖の周辺に大風が吹いて海が荒れたわけです。天候の急変と言えば、最近、埼玉県の局地的豪雨で、柳瀬川が氾濫して釣り人2人が孤立し、一人は救出されましたがもう一人は残念ながら流されました。この川は、わたしも子供の時に釣りに行ったことがありますが、普段は全然危険な川ではありません。しかし、雨や嵐のような突然の自然現象が人間の想定を超えることがあります。おそらく、いつもガリラヤ湖で漁業をしていたプロだった弟子たちで、色々な危険には遭遇していたでしょうが、彼らを悩ませる逆風は想定外であり、流されてしまいいつまでたっても対岸に着けなかったのでしょう。

ある神学者は言います。「われわれは一度沈みかけなくてはいけない。」自然現象や、人生の試練によって沈むこと。一昨日は金井章子姉の葬儀でしたが、91年間のご生涯で、故人略歴をみると沈むことが何度もあったように感じられました。そのことのゆえに、金井さんは救い主に出会っているわけです。沈むことなくては、人間は自分に自信を持っていますから、救い主に頼ろうとはなかなか思わないわけです。

さて、このイエス様の水上歩行の記事は海外のキリスト教国でも不信感や嘲笑を生みだしてきたそうです。生きた人間が水上を歩く、これは無理と考えられます。忍者のようです。しかし、この部分を福音的に読むと、そこには大きな慰めが発見できるのです。

この部分の順序を見ますと、まず、イエス様は一人になり祈るために山に登りました。ここで、弟子たちと別れたことが大切です。弟子たちが先生であるイエス様と別に行動しなくては、弟子自身の信仰が現れないからです。また、イエス様は弟子たちに起る突然の荒波の危険を予知しながらも、そちらに彼らを送った訳です。守ることをやめて、危険にさらしたのです。沈むようにさせたのです。これが、使徒書の日課にある「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマ11:22)ということです。厳しさです。神に優しさや、守りだけを期待すると、自然の厳しさ、人生の厳しさに接した時に、信仰を失うでしょう。弟子たちは、まさに嵐の中で信仰を失う瀬戸際だったと思います。ですから、わたしたちも、神の慈しみに満足するだけではなく、時に、神の厳しさに心をはせ、この厳しさの中で神は信仰を育て、岩のようにゆるぎないものとしてくださることを信じる必要があると思います。

弟子たちがまさにヨナの乗った船のような困難な状況にあった時に、イエス様は祈りを通して神と語り合っていたわけです。弟子たちが見ていたものは、荒れ狂う海だけでした。わたしたちも、困難の際には目の前の波や、悲惨な情景や、悲しみしか見ることはできません。自分の力で悲しみを希望に変えることはできないのです。

この弟子たちの苦しみをイエス様は既に御存知であり、憐れまれたのです。そして助けの働きをされました。水上を歩くというのは、旧約時代からある、自然現象を超越した奇跡です。出エジプトの時の海が裂けて、海の中を歩いてわたったという記事も似ているかも知れません。人間的には行き詰まりなのに、そこに神が活路を与えて下さるのです。パウロも自分は何度も死にかけたが助けられたと言っています。そして、ここでは船の近くに現れたイエス様を、最初、弟子たちは、認識できませんでした。幽霊や亡霊だと思ったわけです。幽霊や亡霊は、イギリス文学には多く登場するそうです。シェイクスピアの作品の中にも多く見られます。文学だけではなく実際にもあるわけです。8月には戦争体験のドキュメンタリーがテレビでたくさん見られましたが、かつてのビルマで行われたインパール作戦で3万人以上の日本兵が餓死したり、病気で死にました。それは、70年以上前のことです。それなのに、現地の人々は今でも、日本兵がそこに立っている亡霊を見るそうです。弟子たちの時代にも、多くの戦争や悲惨な出来事があったでしょうから、そこでは亡霊が現れたのかもしれません。突然、嵐の水上で、闇の中から現れたイエス様を見て、彼ら怯え、叫び声まであげたわけです。しかし、その時に、彼らの信仰はどうなっていたのでしょうか。亡霊への恐れは、究極的に死への恐れです。そして、すべての人は亡霊に呪われたような存在す。死に定められています。あのバクダッドの死神に狙われている者は、あの召使ではなくわたしたち自身なのです。これは恐ろしいことです。

このイエス様の場面は、死を恐れる人間の恐怖の叫びから、神の顕現と怖れを描き出す場面に大転換します。イエス様は「恐れるな。わたしだ。」と語りかけています。わたしたちが困難にまきこまれているときに、神は必ず「おそれるな」と語りかけてくださいます。旧約の日課では、逃げて行った預言者エリヤにも勇気を与え「行きなさい、あなたの来た道を引き返しなさい」と導いています。つまり、死と困難な場所に戻りなさい、そこであなたはわたしが主なる神であることを知る。さらに、あなたは、幽霊や、悪鬼、バケモノ、命を狙う者、憎しみと怨念の場所に戻りなさい、そこでこそあなたは、死の剣を持つ悪霊や亡霊ではなく、命の剣を持つ主なる神に出会うであろうというのです。やはり、「人は、一度沈みかけて」本当の神に出会うことはないのでしょう。

波に悩んでいた弟子たちは、イエス様を発見して、水の上を歩くことができました。しかし、すぐに荒れ狂う水面に目を奪われ、死の恐れに再び捕われました。そこで、「信仰の薄い者よ」と叱られました。ですから、わたしたちは人生の荒海しか見えなることが多いわけです。わたしたちは時にはサマラの死神しか見えない。わたしたちは実に弱い存在です。死に定められた存在です。しかし、イエス様はこのように罪深く、死に定められているわたしたち、悪霊やサタン荒海にのみ心を奪われているわたしたちに代わって、十字架にかかり、わたしたちが定められている死ぬべき死をわたしたちの身代わりになってくださったのです。そしてこの方を信じるだけで救われます。もう荒海も、死も、苦しみも恐ろしくないのです。何が起こっても平気です。パウロもそれを証ししています。この死からの救い主こそ、イエス・キリストです。死の亡霊に憑依され、苦しめられ、恐れ、悩まされがちなわたしたちを救うことができるのは、キリストのみです。


説教:中川 俊介 牧師