2015年9月23日水曜日

~説教~「矛盾の上に咲く花」


「矛盾の上に咲く花」

マルコ827-38 2015.9.23

 

今日の題は、モンゴル800、モンパチという沖縄のグループの歌の題と同じです。その歌詞にこうあります。「矛盾の上に咲く花は根っこの奥から抜きましょう。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい種をまきましょう。そしたらどこの国も優しさで溢れ、戦争の二文字は消えていく。」矛盾とは、中国の韓非子(紀元前3世紀)の本にある、矛と盾を売る商人の話から来ています。どんなものも突き刺す矛と、どんな刃物も通さない盾を打っている商人に、客がその矛で盾を突いたらどうなるかと問いただし答えられなかったという話です。これは笑い話ですが、わたしたちの生活にも矛盾は多いものです。

今日の日課はマルコ福音書における転回点とも言われている部分です。ここを一つの折り返し地点として、後半の部分は苦難の十字架の話に移って行きます。だから、十字架の予告がでているわけです。

 イエス様の一行は、色々な村に行って、愛の神のことを伝えようとしました。人々は聖書を詳しく知りませんから、愛ではなく、神を裁きの神と思っていました。そうした伝道の旅の中で、イエス様は弟子に人々が自分のことを誰だと言っているかを尋ねました。そこからわかるのは、人々がイエス様を神からの預言者の復活の姿として理解していたことです。イエス様の伝道は、神の愛を伝えるというよりは、有名な預言者の生き返りという形で理解されていたのです。その後で、イエス様は、弟子たち自身の意見を聞きました。しかし、自分はどう思うかと問われて、答えてはいません。わたしたちも礼拝で、信仰告白がありますが、他の人に混じって言葉上となえる場合が多くあります。一人一人が自分の信仰観を神に告白することとしてとなえたいものですね。たとえば、使徒信条で「罪の赦し、体のよみがえり、限りなき命を信ず」ととなえるときに、それを心から唱えることです。本当にそうだと確信して言葉に出すと、信仰と実際の生活との矛盾はなくなり、恐れもなくなり、限りない勇気が溢れます。

さて、イエス様の問いかけに、答えたのはペトロだけでした。ペトロは、「あなたはメシアです」と答えました。正解です。ペトロはイエス様が、神のメシア、つまり救い主だと思っていたのです。しかし、そのあとでイエス様が語ったメシアの役割、十字架の苦難の話は、彼には信じられない話でした。しかし、それは聖書の教え、聖書の預言であって、イエス様が思いついたものではありません。一方、ペトロの考えは、聖書に基づいたものではなく、世間的に伝えられていた世直しの王様的な、救い主の考えでした。イエス様の考えは、正しいものが正しくない者のために苦しむという、神の愛の計画と矛盾していませんでした。ペトロの考えは、神の言葉と矛盾していました。そこで、弟子のリーダーであったペトロが、聖書ではなく世俗的な考えで、イエス様の発言を遮って反対しました。ペトロは聖書と食い違っている自分の矛盾には気が付かず、人間的な親切心からイエス様の将来を心配して注意したわけです。

この部分の、マタイ福音書の並行記事を見ますと、「主よ、とんでもないことです」とまで言ったと書いてあります。ここでイエス様はそれを強く批判しました。「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」これは本当に厳しい言葉のようです。しかし、直訳すると「サタンよ、わたしの前にでしゃばって出てきて邪魔をしてはいけない」となり、それほど否定的な表現ではありません。あなたが心配していることは、人間の心配であり、聖書を通して神が語っている事とは違うよという意味です。ここで思い起こすのはルターの経験です。若いころのルターは、自分で救いの道を切り開こうと切磋琢磨、苦行をしました。しかし、そうした人間的な努力が聖書の教えと違っているのを発見したので、本当に救われたのです。ルターが発見したのは、人は神の恵みによって聖書に導かれ、救い主を信じる信仰だけで救われるという事です。

 さて、イエス様が殺されたのは、宗教的指導者によるものでした。神を知っていると自慢していた者たちが、実は聖書の伝える神ではなく人間の習慣に従っていたわけです。ここに、例外なく、人間なら誰でも、誰でもが持つ矛盾が隠されています。わたしたちも例外ではありません。ここが肝心です。ですから、第一弟子のペトロも、「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」と教えられたわけです。この言葉は記憶に残った事でしょうね。そうした失敗を削除しないのが聖書の良さでしょう。

「あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」神の愛ではなく、人間関係の愛を考えているのがわたしたちです。人間の愛は条件的なもので、神の無条件の愛とはちがいます。パウロも初めはそうでしたが、復活したイエス様に出会ってから、無条件に罪を赦す愛の救い主がおられることがわかりました。そこで、パウロは有名な第一コリント書13章の愛の賛歌で「愛は自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と述べています。

ここで、自分の利益を求めないとは、自分の事柄を第一にしないことです。誰でも自分が先ですが、聖書は逆です。神の愛が先です。いらだたず、というのは人から挑発されて怒りを爆発させないことです。恨みを抱かないとは、もともとは会計係が勘定する用語であり、悪いことばかりを数え上げないという意味です。聖書に従って、人間が神の愛を受けることは、人間的な矛盾がなくなることです。それが起こることは人生最大の奇跡の一つであると言えるでしょう。ペトロもパウロもルターもそうでした。

このことは、イエス様の言葉の「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということと同じです。つまり、神を愛し古い矛盾に満ちた自分に死ぬことです。十字架とは捨てられた姿です。メシアであるイエス様はわたしたちをありのままに愛し、その罪の身代わりとなって、絶望の世界に落ちてくださったのです。しかし、ペトロでさえ、この時はまだ、矛盾に満ちた信仰観でした。それを変えて下さったのは、イエス様の忍耐と愛の十字架でした。わたしたちの救いの原点は、わたしたちを愛する救い主が、わたしたちのために命を捧げるという愛を示してくださったことです。この愛の十字架のもとには、矛盾の上に咲く花は、咲くことができません。人間の作った偽物の愛の花は散ります。第一コリント2:2「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」讃美歌208番「十字架のかげに行きしときに、み神の愛を悟りえたり。」愛を知った。作曲したのはアメリカの女性作詞家、フランシス・クロスビーです。彼女は盲目の生涯を乗り越え生涯に9000曲の讃美歌を作詞しました。彼女の95年間の人生を支えたのも救い主との出会い、そして愛を知ったことです。ある牧師が、目に見えない彼女に、生まれ変わったら願いは何ですかと聞きました。彼女はまた目の見えないことです、天国で最初に見るのが愛する救い主だからですと答えたそうです。

「矛盾の上に咲く花は救い主イエス・キリストが根っこの奥から抜いてくださる。同じ過ち繰り返さぬように。そして新しい神の愛の種をまいてくださる。そしたら誰の心も優しさで溢れ、不幸や絶望の二文字は消えていく。」

わたしたちの人生はまだまだ矛盾に満ちています。でも、わたしたちを無条件で愛し、わたしたちの矛盾を十字架によって取り除き、神に近づけてくださる救い主がいます。その神の愛を悟るのが礼拝です。



説教:中川 俊介 牧師

2013年12月22日日曜日

~説教~「悲しみよサヨナラ」


「悲しみよサヨナラ」        

ルカ1:46-55  2013.12.22



クリスマス・コンサートのビラを配っていた時のことです。いちょうホールの近くを歩いていましたら、カトリック教会の教会堂がありました。夕方になったのでイルミネーションがついていました。これは幼稚園も兼ねた広い庭に生えている大きな木にかけてありました。不思議なのは、それが、一般にある富士山型をしていなかったことです。良く見るとそれは丸い植木の枝に沿って楕円形をしていました。つまり聖母マリアのメダイの形をしていたのです。確かにクリスマスのお祝いには、今日の福音書にあるマリアの賛歌に見られる、マリアさんの素晴らしい信仰が隠されています。

ルカ1:46にあるマリアの賛歌に、彼女が天使の予告を受けて、戸惑いながらも「お言葉通りこの身になりますように」と答える場面がでています。そこで彼女は生まれてくる子が神の子であることを信じたのです。ですから親族のエリサベトも、マリアに対して主の御言葉は実現すると信じた人は幸いですと言っています。マリアの賛歌の喜びは、彼女が主の御言葉は実現すると堅く信じたことに理由があると言ってよいでしょう。

実際には、わたしたちの毎日の生活には多くの悩みや悲しみが起りうるものです。こうした苦しみを、お釈迦様は4つの苦しみと悲しみに分類しました。第一に生きる悲しみ。生きていくことは実は大きな苦しみと心配、人間関係の難しさに満ちているというわけです。第2には病を持つ苦しみ。これは、病んだ人でないとわかりません。わたしも小学校一年生で肺結核にかかり苦しかった思い出があります。他人から見れば小さな事ですが、当事者には苦しいのです。例えば血液検査をするために採血するのですが、体が小さいので血管に注射器が刺さりません。何度も何度も刺されては失敗し刺されては失敗することが拷問のように感じたのです。もっと重い病気ならなおさらのことでしょう。また、第3に老いる悲しみがあります。木曜日に聖歌隊奉仕で行った三愛病院のキャロリングでは老いる意味を痛感しました。職員や婦長さんもトナカイや天使、サンタなどの扮装をして150床ある老人向け病院の患者さんたちを励ましてまわりました。わたしたちもせいいっぱい讃美歌を歌って雰囲気をもりあげました。ただ、ほとんどのお年寄りは反応できないほどに衰弱していました。なかには、讃美歌をきいて涙を流している患者さんがいました。楽しかった過去、家族と祝ったクリスマスを思いだして、孤独を感じたのかもしれません。最後に4番目の苦しみは、いよいよ死ぬ時にあります。生きる悲しみ、病気の悲しみをあまり経験したことがない人も、死ぬ悲しみと死別する悲しみを避けることはできません。人生は如何に多くの悲しみと苦しみからできているでしょうか。お釈迦様は、ですから、そういう人生の執着を捨てなさいと教えました。確かにそれも一つの解決法でしょう。

でも、クリスマスには、神さまがそうした苦しみ悲しみを解決してくださったことを、わたしたちは知らされます。もう、悲しまなくても良いのです。

マリアの賛歌を詳しく見てみましょう。困難な中でも、マリアさんのように喜びに満たされた人には、信仰の形があります。わたしたちはその信仰から学びたいものです。このマリアの賛歌には二つの態度の比較があることがわかります。一つのグループは、身分の低い者、はしめ、飢えた者、主を畏れる者などの群れです。それは自分の力に頼りたくても頼れない者たちです。マリアさんは自分をその中の一人として自覚しています。はしためとはギリシア語ドウーロスの女性形であって、奴隷の女という意味です。自分の力ではなにもできない奴隷女です。もう一方で、自信に満ちた人々のグループがあります。思いあがる者、権力ある者、富める者などの人々です。主の喜びはこの人たちには及びません。わたしたちや、周囲の人々が人生を喜べないときに、もしかしたら、このグループに属しているのかもしれません。しかし、主を畏れる者にはわかるでしょう。弱さの意味、自分では何もできない意味を知っているからです。そして、小さな事かもしれませんが痛みのない生活、自由に体を動かせる生活を喜び感謝することができます。さらにすごいのは、マリアの賛歌の喜びは、マリアが主の御言葉は実現すると信じたことによるわけですから、まだ問題が解決してはいないのに、すでにすべて解決したかのようにマリアは賛美したのです。この姿勢から学ぶことは多いでしょう。

後に、イエス様が成長し伝道に出た際にも同じように教えました。「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時あなたがたは幸いである。喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22以下)神の世界は喜びを先取りした世界です。イエス様も母親のマリアと同じように僕、つまり奴隷の低い身分に自分をおきました。これは聖書の他の箇所にも証しされています。パウロは書いています、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になりました。」(フィリピ2:6)つまり、クリスマスのお祝いとは、神の御言葉は必ず実現すると信じた母マリアが、神の子イエス・キリストという神の奴隷を生んだことです。低き姿に限りない賛美と喜びが生まれました。そして、生きることは最早、生病老死の苦しみではなく、生かされ、神に支えられている喜びに変ります。病気も同じです。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)病気が治るだけではないのです。エゲイローつまり死の眠りから覚ましてくださるのです。そして、最大の難関である老いる事と死さえも克服されます。「死は勝利に飲み込まれた。死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる。神に感謝しよう。」(第一コリント15:53以下)イエス様の十字架と復活によって、お釈迦さまですら諦めるしかないと言った死が滅ぼされたのです。使徒書の日課にも「その誉は人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と書いてあります。その反面、どうしても喜べない人々もいるでしょう。マリアの賛歌に出て来る第2のグループの人々です。思いあがるもの、権力ある者、富める者などです。主の喜びはこの人たちには及びません。その結果「悪意に満ち、妬み、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口をいい、人をそしり、人を侮り、高慢になってしまう。」(ローマ1:29以下)それらの人々に喜びと神への感謝はあるでしょうか。ないでしょう。神への感謝と賛美がでる時には人間はイエス様と同じように神の小さな僕だからです。ただ心の頑固さは誰にでもあるのであって、試練を通して神はどんな人も謙虚にしてくださるのです。これは人間の姿勢の問題ではなく神の救済の計画と聖霊によるのです。

最初にクリスマス・イルミネーションがメダイの形をしていたとのべました。八王子ルーテル教会のイルミネーションの中心は十字架です。クリスマスは尊い神の子キリストが十字架の犠牲となって死ぬために生まれてくださったので、喜びと悲しみは共にあります。愛と義の共時性を象徴しています。しかし、この悲しみはわたしたちの、生きる悲しみ、病の悲しみ、老いる悲しみ、死ぬ悲しみを背負ってくれた十字架の悲しみでした。それこそが、旧約聖書の日課にあるハンナの祈りにでてくる「主は命を絶ち、また命を与える」(サムエル上2:6)という意味です。カトリック教会には、ピエタ像があります。ピエタは慈悲と言う意味ですが、それは、十字架から降ろされたイエス様の遺体を腕に抱く聖母マリアの姿であり、ミケランジェロの作品が傑作とされています。それは心を打ちます。なぜなら、マリアのおだやかな表情は賛歌にある「そのみ名は尊く、その憐みは世々に限りない」という言葉が聞こえるかのような、悲しみをたたえてはいるが神の業の完成を受け入れた聖なる姿をあらわしているからです。イエス様は長い歴史のなかで待ち望まれた救い主として、馬小屋に生まれ、貧しき姿を貫き、十字架の死という悲しみをとおして、痛みと屈辱をとおして、全ての悲しむ者の悲しみを喜びに変えてくださいました。これがわたしたちの信じるゆるぎない福音です。このクリスマスのよき知らせを信じ続けてまいりましょう。悲しみよサヨナラ。

説教:中川 俊介 牧師

2012年3月11日日曜日

~説教~「大掃除してますか」


「大掃除してますか」        

ヨハネ 2:13-22 2012.3.11


今日は震災からちょうど1年にあたります。9月6日の広島、9日の長崎の原爆と同じように、3月11日は日本国民にとって忘れられない日になりました。今でも避難者は34万人あるそうです。先日、わたしの母の友人の家で火事がありました。家人は一階にいて、二階から出火して上が全焼してしまったそうです。原因はコンセントだったそうです。コンセントのまわりに細かい綿ほこりが付着していて発火したそうです。掃除しておいたら防げた家事でした。震災も自然現象であり避けることはできませんが、家財全部を捨てて、直ぐに逃げた人の多くは助かっています。旧約聖書エゼキエル書3章16節以下には、警告の大切さを説いています。「人の子よ、あなたを家の見張りとする。わたしに代わって警告しなければならない。人が悪の道を離れて命を得るように諭さなければならない。」このあなたは、誰のことをのべているのでしょうか。単に、被害の被災者だけでしょうか。

旧約聖書の日課は、有名なモーセの十戒ですが、そこの後の部分には、「神が来られたのは、試すためであり、神への畏れをおくためである」聖書の思想は一貫しています。申命記5:33「あなたは主が命じた道をひたすら歩みなさい。そうすればあなたは命と幸いを得る。」神が望んでいることは、わたしたちを災いから救い、命と幸いをあたえることだと、わたしは確信しています。使徒書の日課であるローマ書にも「信仰は聞くことによって始まる」とあります。命の道、生きる道は、御言葉を聞くことから始まるわけです。

では、福音書をみてみましょう。ヨハネ福音書2:13以下です。過ぎ越しというのは、古代イスラエルの時代にエジプトで奴隷化されたユダヤ人が神の特別な助けを得て、エジプトを脱出して逃げ、自由を得た故事を祝うお祭りです。その時からすでに3千2百年以上経過しています。ユダヤ人はこの出来事を毎年お祝いしていました。それが、ご存知のようにキリスト教の復活祭の起源となったものです。古代イスラエルでは、政治的奴隷状態からの解放をいわったのですが、イエス様の十字架のあとの復活を祝う復活祭は人間の霊的解放を祝うものです。

イエス様の思想は、旧約時代の聖書の思想と全く同じであり、人類に命と幸いをあたえることでした。そのためには、「命と幸い」以外のものを取り除かなければなりません。病気の場合も同じです。悪性の腫瘍が見つかったら、外科医はそれを手術して取り除かなかれば、患者は生きることができません。神は、人間に痛みを与えることがあるかもしれません。でも、それはわたしたちが生きるためではないでしょうか。神はイエス様に十字架という苦しみをあたえました。それは、しかし、生きるため、永遠の命を与えるためでした。それは第一ヨハネ5:13にあるように「神の子イエスを信じる者に、永遠の命を得ていることを悟らせるためです。」生きるためには、命に反するものが取り除かれる必要があります。

イエス様は、神殿から羊や牛、鳩など、供え物の為に売られていた商品を追い出しました。神殿が神の場所であり、命を与える場所であることが忘れられ、誰がどんなに高価な供え物をしたとか、どんなに立派だとかに意識が迷っていたからです。旧約聖書にも本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)と書いてあります。イエス様が神殿の境内の売店や両替に対して否定的だったのは、彼らの思いが利益や外観や、人間の敬虔さばかりを追求していて、神への愛が欠けていたからでしょう。現代でも同じです。礼拝において神への愛、心からの感謝、これがもっとも大きい供え物です。これ以外にはない。それが、命と幸いのみちであって、その他の不必要なもの、悪性腫瘍のように害悪を及ぼすものは、神さまによって取り除いていただかなくてはなりません。

イエス様の改革は神殿の供え物だけではありませんでした。神殿そのものが壊れてなくなるもの、つまり、神のものではなく、人の手で作ったものに過ぎないことを明らかにしたのです。しかし、当時の最高の宗教権威ですらこのことが理解できず、「神殿建築には46年もかかったのになんで3日で立て直すことができるのか」と質問したのです。もともと、神殿というものはいすらえるにはなく、幕屋と呼ばれるテントでした。それが、ソロモン王のときに第一神殿が建設されたのですが実際に準備したのは、ダビデ王でした。当時の様子は、旧約聖書歴代誌上29:1にダビデの言葉として「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」と書いてあります。そして、ダビデは自分個人が財産を金3千キカル寄贈した、家来たちよ進んで神のために寄贈するものはいないか、そう訴えたのです。すると、部族長や、長官や、軍の隊長などが次々に寄贈し、その総額はダビデ王の額を上回り、なんと金5千キカルに達したと書かれています。一キカルは34.2キロですから、これは171000キロ、171トンに及ぶ膨大な額であったのです。現代の金額にすると、8千億円です。ダビデ王の分を加えると1兆3千億円でした。そのほかに、宝石、銀、当時は貴重だった鉄も3千トン寄付されていますので、おそらく何兆円にも及ぶ神殿工事だったことがわかります。それは山を半分削って、縦500メートル、横250メートルに及高さ30メートルくらいの平らな基礎を作りその上に巨大な神殿を建てたのです。ですから、イエス様が神殿を三日で立て直すと言った時に誰もそれを信じなかったでしょう。ですが、本当はイエス様が言っているのは、神殿を建てたときのダビデ王の主旨のことです。「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」、つまり神への限りない愛の献身なのです。そのためには、他の不純物は一切不必要です。牛もいらない。鳩もいらない。金もいらない。本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)

ここにしか、本当の命と平和、命と幸いはない。聖書は警告しています。あなたは生きなければいけない。あなたの人生は幸いなものでなければいけない。だから、発火しやすい埃のような不必要なものをイエス様に取り除いていただく必要がある。「キリストは教会を清めて聖なるものとしてくださる」(エフェソ5:26)と約束されています。十字架の清めを信じ、わたしたちも命と幸いに既に入れられていることを感謝しましょう。「神が清くしたものを清くないと言ってはならない」(使徒11:9)とあります。それがわたしたちの確信でなければいけない。イエス様はわたしたちの心の中の神殿も既に、信仰によって清めてくださっているからです。確かに、震災、病気、困難悩み、そして十字架は耐え難い大きな試練です。しかし、それは同時に、わたしたちの雑多な心が清められピュアな神への愛に励まされる救いの時でもあるのです。自分の人生は自分のためにあるのではなく神の為、つまり愛するため、命を育むため、光を闇に輝かせるためにあることを覚えましょう。


説教:中川 俊介 牧師