2018年10月28日日曜日

【丹澤 桂 牧師、八王子教会に来る…ッッ!】

【2018.10.28】
八王子教会に丹澤 桂 牧師がお越し下さいました。
「明日のことを思い悩むな」という説教で講壇していただきました。
※後日掲載予定






【丹澤 桂 牧師 Profile
・生年月日…昭和14(1939)年4月2日
・出身…山梨県出身
・学歴…青山学院大学大学院修士課程修了
    ルーテル神学校卒業
・主な任地…福山教会、市ヶ谷教会、市ヶ谷学生
      センター、西条教会、甲府教会、名古屋
      めぐみ教会、田園調布教会を歴任(田園調布
      教会にて引退)
・出版…"人生の歩み方
     ―耐えられる話し、耐えられる時間―"
    "歴代志"
    "イスラエル旅行記"

2018年10月14日日曜日

10月14日実施「青年会主催夕方晩さん会」

・ルーテル八王子青年会活動報告10月14日第2弾

・青年会主催「夕方晩さん会」

ルーテル八王子教会では、不定期で青年会主催「夕方晩さん会」を行っております。地域の人たちとの交流を深める目的で夕食会を行っております。今回は「タラ鍋」です

料理は、自分たちで作ります。1か月前から牧師も踏まえて打ち合わせを行います。自分たちで何を食べたいのか・地域との交流会のためどのようなお食事会にするのか。今回は、秋に入り涼しくなったので鍋料理にしようかなと思い、鍋料理にしました。

食事が置かれたテーブルの周りに参加者が座り、おしゃべりをしながらお食事するのはおいしい!なんだろうか、いつも食べている料理なのに!参加者は、外部からの参加者2名を含め10名。おしゃべりをすることで自分たちが抱えている悩みを話すことができる・同じ趣味を持った仲間を見つけることができるかもしれない。もし、悩みを抱えている方・教会に興味がある方は夕方晩さん会に参加し、教会の人たちとお話してみてはどうでしょうか?



次回も行います。日程が決まり次第、お知らせします。皆様のお越しをお待ちしております。




2018年10月14日 ルーテル八王子教会青年会






2018.10.14 教会清掃風景



教会外壁洗浄掃除中

・ルーテル八王子青年会活動報告10月14日第一弾

10月14日午後ルーテル八王子教会の外壁を青年会中心で掃除しました








2018年9月23日日曜日

~説教~「暗闇から光へ」


「暗闇から光へ」          

ヨハネ9:13-25 

 

旧約聖書では、光とは、幸福と救いを象徴するものです。新約聖書では、旧約と同じ考えがあると同時に、光を悪に対立する善として考える傾向があります。最近は計画停電というものがあって、懐中電灯の光やローソクの光りに頼っていると、何が明るくて何が暗いのかという目の前のことについては大変に敏感になっています。先日は成田空港に行ってきましたが、帰りの高速道路は真っ暗でした。わたしたちは自分にとって何が光であり、何が闇でしょうか。先週は5人の夫を持った女の人の個人的な苦しみに触れる聖書個所でした。今回は視覚障害を持った人の個人的な苦しみに触れる個所です。このなかでの、光と闇を考えてみましょう。

まず、第二ペトロ1:7以下に「信心には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい。そうすればわたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。しかし、これらを備えていない者は視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています」と書いてあります。視力は物理的な視力ではなく、霊的に物を見る目のことを示しているといえます。5人の夫がいたサマリアの女もイエス様に会うまで、信仰心はあったのでしょうが霊的な視点がほとんどありませんでした。この霊について聖書では、キリストによって命をもたらす法則であるとローマ8:2に書かれています。つまり、イエス様との真の出会いが霊的な出会いだと言えます。

さて、生まれつき目が見えず、道端に座って物乞いをしていた人が、イエス・キリストと霊的な出会いを体験しました。それまでは、何か悪いことが起こると、天罰だとか、本人の努力が足りなかったとか、本人の責任だとか、あるいは両親の過ちによる家庭環境の問題、などが説かれるのが普通でした。ところがイエスは、そうした責任追及、犯人探しの姿勢に対してはっきりノーと言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)と答えられるのです。つまり、人生最大のマイナス、最も苦しい事柄、誰でもさけたい屈辱、激しい痛み、最大の暗黒は神の栄光の業を表す過程だと宣言したわけです。そこには十字架の奥義が隠されていると言えます。

イエス様は、この人にシロアムの池で目を洗い、当時のユダヤ教の規定通りに祭司に報告して承認してもらうように勧めました。彼は、言われた通りにしました。彼は何も疑問に持たずにイエス様のお言葉に従いました。目は見えなくても、きっと、イエス様の言葉の中に溢れてくる愛を感じたのでしょう。

この劇的な視力回復という癒しの後で、ファリサイ派による、この元盲人の人への尋問が始まりました。ファリサイ派の人々は、まず、この出来事が、いかなる行為もしてはならないと定められている安息日に起こったことを問題にします。「目が見えるようになる」という喜ばしい出来事そのものを無視します。喜びではなく、物事が規則どおりになされたかどうかを厳しくチェックすことだけが大切なのです。安息日に禁止される労働の一つに「練り粉をこねる事」が含まれていました。イエス様が、その日が安息日であるにも関わらず、唾でこねた泥(練り粉をこねている)によって治療しているので、この癒しの業は律法違反を含んでいると考えられました。彼らにとって、この男が一生見えなくても、あるいは物乞いもできなくなって死んだとしてもかまわなかったのです。彼らの心は冷たくなり愛がなかったので、この小さな男は存在しないも同然でした。

ファリサイ人のように、すばらしいことが起きたのに喜べないというのは、どうしてでしょうか。妬みが考えられます。ファリサイ派は、自分たちにはすばらしい神の恵みを体験できずにいる。しかし自分たちが「罪人」として見下しているこの男が、神の業を経験した。そのことに対する妬みを持ったのです。この妬みについて、竹森満佐一先生は次のように解説しているそうです。妬みの原因は、「神から誉れを受けようとしないで、人から褒(ほ)めてもらおうとする思い」であると。ファリサイ派の問題点は妬みだけでなく、わたしたちの問題点でもあり、罪の根源です。人間に褒められたいいう人間中心主義とも言えます。褒められたいから盗んだり時には殺したり、傷つける。それは神ではなく人間に栄光を期待する態度ではないでしょうか。

 さて、ファリサイ派の中の間に裂け目、対立、ジレンマがあったことがわかります。イエス様を否定する者と、神の働きを肯定する者が議論したのです。両者の意見が分かれたままなので、本人の意見が求められると、彼は「あの方は預言者だ」と証言しました。聖書は、この卑しめられ、不幸のどん底にあったような人が生まれ変わって、自分の言葉で神の業を証ししている事にスポットライトを当てています。受け身で被害者だった人間が恐れを持たない能動的な人に生まれ変わったのです。この元盲人の人が、目を開かれ、彼を取り巻く「悪」の現実を見る事になったのです。彼はイエス様と出会い、イエスによって霊的な目を開かれることによって、「悪」が「悪」であることが見えるようになったのです。イエス様による癒しは、隠されていた悪の姿を暴露したのです。

 主イエス・キリストは、私たちが本当に見えるべき事を霊的に見えるようにして下さる方です。かつて目が見えなかったけれども、今は見える。これはイエス様の働きです。わたしたちの努力や知識にはよりません。ファリサイ派をみると如何に多くのことを知っていようとも、イエス様を知らないということがどんなに人間の心や考えを歪めてしまうか、どんなに欠如に満ちた人間にするかということを思わされるのです。イエス様を知っているか、知らないか、そのことでこの世が二分されてしまうということなのです。ですから闇とはファリサイ人たちです。闇とは愛のない姿、喜びのない人生です。闇とはこの世の知恵です。光とは救い主です。見えるとはイエス様を知っていることです。いや、イエス様に知られていることです。それを信じるならば、私たちは今までとは違う生き方をすることになります。それは今まで大切に持っていたものを失うという一面もあります。しかし、私たちがこの世で何かを失うとしても、イエス様は私たちを求めておられ、今も私たちを捉えて離さなず、安息日の祝福を与えて下さる方です。なぜなら、礼拝を通してイエス様はわたしたちに出会ってくださるからです。イエスさまにとっては、安息日は、極めて良い日、最高に祝福された日、喜び多い霊の日でした。この男の癒しはわたしたちの癒しでもあります。なぜなら日曜日はキリストによって命をもたらす法則による霊の日だからです。この日には、盲人がキリストの言葉に従ったように、わたしたちも思い煩いを主にゆだねて、主に従い主を礼拝しましょう。聴き従うところに主の祝福と癒しがあります。この日曜日の礼拝そのものに、主イエス・キリストとの出会いの光があり、闇は消え癒しが実現し、わたしたちもキリストの福音を告げるものとされます。



説教:中川 俊介 牧師

2018年9月9日日曜日

~説教~「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」


「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」  

マルコ 7:24-30 2018.9.9



蝉は短くても3年長いものは17年地中にいて、ほんの数週間地上で鳴いて夏の終わりには死に絶えます。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」一茶はそのはかない命に自分の人生を重ねてみたのでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。長いようで、実は短い人生を生きているのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか。

しかし、長いようで短く、苦しみに満ちた暗黒の時間の旅の果てに必ず神は、悲しみを喜びに変えてくださいます。夏の終わりの蝉をみて感じるような人生の空しさを覚える時に、神はそのめぐみの姿を示してくださいます。40年の出エジプトの砂漠の旅がそうでした。

イエス様は、人生の暗い谷間をさまようような、蝉の暗い地中での生活のような、社会の底辺にいる人々に伝道していたようです。福音書では、汚れた霊に取りつかれた人、悪霊に取りつかれた人、病人、らい病人、中風で体が麻痺した人、手が動かない人、墓場を住まいとした人、12年間も婦人病で出血が止まらない人、耳も聞こえない人、目の見えない人、夫が死んで生活できなくなった女の人、姦通の罪を犯した女、収税人、罪人、犯罪者など、イエス様が助けた、暗闇の生活で苦しんでいた人々は数限りありません。

でもなぜ、イエス様は金メダルを勝ち取るような努力家、健全な魂の人、正統派ではなく、地中の蝉のようなはかない社会の底辺ともいえる人々と交わり、神の福音を伝えたのでしょうか。

聖書を見てみましょう。最初に、イザヤ書です。35章2節に、「人々は主の栄光と神の輝きを見る」と書いてあります。それは、頑張りなさい、という励ましではありません。努力しなさいでもない。神の力です。これはペトロが行っていることと同じで、「今しばらく試練に悩まなくてはならないが、その試練によって精錬され、金より尊いものとなる」(第一ペトロ1:7)人生の荒地、蝉の地中生活とは、逆説的に、そこに命を与えはばたかせる神の栄光を見る場と言えるでしょう。だからこそ、イエス様は底辺にある人々に福音を伝えたのです。その人たちが、逆説的に一番早く神の栄光を見るからです。これが福音です。

その福音のために、イエス様と弟子たちは故郷のナザレからは何日も歩かなければ辿りつけない地中海沿岸の港町、ティルスにまで来ていました。ティルスはイエス様の時代の何百年も前に栄えた大都市でした。この港町は有名なレバノン杉の輸出,貝からとる高価な紫染料の生産などが有名で、神殿や大邸宅などがあり、道路は石で舗装されていました。ティルスは最早ユダヤ人の領地ではありませんでしたが、当時のほとんどすべての大都市にはユダヤ人が散在していましたから、そうした人々に、イエス様は聖書を通して神の存在と神の栄光を伝えようとしたのです。

そこで出会った母親はユダヤ人ではなく、ギリシア系でした。そして、そのことはイエス様にとって彼女が異邦人だったということです。ですから、ここでは、最初の目的のユダヤ人のための神の栄光を示す奇跡ではなく、ユダヤ人には禁じられていた異邦人との接触をイエス様がどのように行ったかが出ているわけです。最初、女の願いに対してイエス様はなにも答えなかったと書かれています。そして、女があまりにも願うものですから、「子供たちのパンをとって子犬にあげてはならない」といいました。つまり、イエス様はユダヤ人のための伝道に来たので、パンは福音のことです。この女に聖霊に満たされた信仰心というものがなかったなら、そこで話は終わっていたでしょう。

ところが、この異邦人の母親は、イエス様という人が、異邦人の救い主でもあることを信じていました。だから「主よ」と言ったのです。おそらく、イエス様が、神の愛は平等であると教えておらえたことを伝え聞いていたのでしょう。実際にイエス様は、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と教えたのです。悪人をも愛してくださっている。それはどんな悪人でも、人間環境の産物であり、悪魔の支配下に置かれた犠牲者であることを神は知っているからでしょう。例えば、犯罪者の生い立ちを調べてみると、そこには、ネグレクト、家庭内暴力、いじめ、障害などの苦しい過去があることがわかっています。犯罪者は、犯罪や暴力の犠牲者でもあるのです。犯罪だけではありません、人間の悪い習慣というものも、遺伝的なもの、環境的なものが大きく影響しています。神はすべての人を愛しておられるのです。勿論、わたしたちも愛しておられる。しかし、これを知らない人々は多い。

さて、この女性は神の愛を信じ、子供が癒されるために、必死でイエス様に願いました。変えられないものを変えて欲しいと願ったのです。それも非常に謙虚な姿勢でした。だいたい、イエス様が語った「小犬」という表現は相手を人間と見ていない、軽蔑した言い方です。イエス様はユダヤ人でしたから、ユダヤ人が普通に考えていた異邦人観を述べたのにすぎません。まず、母親は、イエス様から、これはユダヤ人伝道であって異邦人は考えていないと言われ、「主よお言葉通りです」(口語訳)と答えました。新共同訳の「しかし」という否定語は原語にはなく「そして」になっています。まさに服従です。神様の命じられることに対する従順な気持ちです。彼女は怒らなかった。服従によって神の否定を肯定としたのです。それと反対に、神を脅かしている信者もいるとある牧師が語っています。自分の願いをかなえてくれないならば、もう教会に来るのはやめます。一応出席はするけど献金はしません。一応献金はするけど、自分のあまった金だけにします。そういう態度です。

イエス様の前にひれ伏した母親は、従順であり謙虚でした。そして、イエス様が子犬の喩えを語った時も、それを面と向かって否定しませんでした。ルターはこの話が好きだったそうです。信仰とは「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」のを見ることだからです。この母親はイエス様の愛を信じ、「パンくずでもいただけないでしょうか」と何度も迫りました。これはまさに、イエス様が教えた信仰の姿勢でした。イエス様の譬えで、ルカ11:5以下、真夜中の訪問者の例があります。客が長旅を終えて着いたのですが、家では食料を切らしています。空腹で寝かせるわけにはいきません。そこで隣の家に行って、どうか食べ物を貸してくださいと言います。答えは、「面倒をかけないでください。子供も寝ているので騒がせないでください。」ここで終わるでしょう。しかし、イエス様は教えました。続けなさい。食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。何度も繰り返されると、どうでしょうか。わかった、わかった、貸しましょう。いや、本当にあなたの熱心さに負けました。まさに、「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」ですから、わたしたちにできることは蝉のようにミンミン鳴き続けることではないでしょうか。神に求め続けることです。神は無視(虫)をも無視しません。求めよ、さらば与えられん。これが、イエス様の教えた信仰の中心です。それは、イエス様ご自身の生き方でありました。

わたしたちにもイエス様の前に跪き、謙虚に求め続ける信仰さえあれば十分です。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」蝉の地中での17年間のあとで神は栄光を示してくださいます。喜びを与えてくださいます。もしかしたら、夏の終わりに落ちても鳴くセミも、実は最後まで感謝の声を上げているのかもしれません。「否定的な状況の裏に神の絶対肯定が隠されている」からです。わたしたちも最後の最後まで謙虚に救いを求め続けましょう。



説教:中川 俊介 牧師